ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

がっかり国会論戦

2016-01-11 14:24:04 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに国会での与野党のやり取りを聴いた。だがやはり失望して途中で聴くのをやめた。耳に入ってきた質問者は自民党の議員だったので、政権と同じ政党だから、まるで歯の浮くような質問、明らかに僕より知識が乏しいことを知って、こんな人物に政治を預けているのか、と今更のごとく情けなくなった。

 反面、野党からちょっと鋭い質問がでると、首相の答弁はいかにも質問者や所属する政党を見下しているような居丈高な態度、表現も荒々しく、聴くに堪えないような態度だった。これではまるで対話になっていない。安倍さんの本当の人格を見た思いがした。なるほど独裁者はこうして次第に聞く耳を持たなくなり、一国のリーダーとしての視線ではなく、権力者の驕りを深めていくのだなあ、と感じた。

 今年は重要な政策を実行しようという企みが与党や一部の野党にあり、極めて危険な道に向かおうとしている年だ。

 6月の参議院選挙で与党は3分の2を確保しようと息巻いている。もし過半数を取ったら、政権と与党にとっては、他の政党の意見を形式的に聞き流しておけばよいという姿勢になっていく。そして参議院は衆議院のファームのような存在になり、リーダーの独裁化が起こり、戦中のような大政翼賛会になっていく。まさか自民党であっても戦争に向かうことはあるまい、と多寡を括っていたら、あとの祭りになる。

 戦争への道はそもそも権力者が超法規的に、また恣意的に権力を弄ぶことから始まる。その危険性は独裁的国家を見るとよく見えてくる。世界から見つめられる日本はかなり好感度が高いといわれる。政治の一線に立つ人々が、そんな評価をありがたく受け止め、さらに自分に磨きをかけるためには、身を低くし、相手の求めることに冷静に耳を傾け、誠実に民衆の声に応えようとするの人間観や社会倫理感が問われるのではないか。

 自民党はすでに憲法草案を作っている。前文に「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家」とあり元首」と規定している。さらに「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。という。

 自衛隊は「国防軍」になり、「国際社会の平和と安全を確保すために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。」と。ここに集団的自衛権の行使や安全保障関連法案を突っ込もうとしている。実態を先に起こし、後で憲法を変え、正当化する姑息な手段が隠されている。多くの疑問点を露呈し、これが自民党の本音だとすると、あまりにも危険な発想文だと思う。

 薄っぺらな内容の乏しい論戦に何の実りもないまま、うっかりすると気が付かない間に日本がとんでもない方向に向かうのではないかと危惧しつつ、彼らの言動に注意を払いながら、主権者である自分自身の言動を強くしないといけないと思ったのだ。

やさしいタイガー


思い出したい優れた人物

2016-01-07 11:17:26 | 日記・エッセイ・コラム

 世界にはさまざまな分野で活躍する人物は多く、少なからず高い社会貢献を果たされている。1900年代初頭に設けられたノーベル賞は今や最高の貢献者の称号ともなっている。日本とて過去何人もの研究者が受賞し、私たちの誇りともなっている。もちろん、こうした受賞者として脚光を浴びる人だけが優れているわけではない。

 明治初期、札幌農学校の卒業生に内村鑑三がいた。札幌農学校はウイリアムス・クラークが自ら所属するアメリカ・アマースト大学の副学長を投げ打って厳寒の札幌にやって来て開かれた学校だ。おもに農業開拓の技術を教え、さらに人間教育をキリスト教信仰に基づいて実行した。

 内村はこの学校で新渡戸稲造や佐藤昌介(初代北大総長)などと学窓を共にし、近代日本に新しい農業のあり方を勉強をしてきた人物で、のちにアメリカ・アマースト大学にも留学している。そんな経験の中から見てきた外国の優れた人物を知り、では日本にはどのような代表的人物がいるのか、あえて英文にまとめて世に出したのが、「代表的日本人」である。

 5名あげているが、次のような人物である。「西郷隆盛」、「上杉鷹山」、「二宮尊徳」、「中江藤樹」そして「日蓮」である。いずれもどこかで記憶にある人物だ。ちなみに内村鑑三の著書の中に「余は如何にしてキリストを信じ如か」という大変高名な著書がある。敬虔なキリスト教信者なのだが、彼がこのような人物を取り上げ分析する背景には多分にキリスト教視点あるいは聖書を基盤にした独特の思想があるようだ。

 個別の人物像に関しては別の機会に感想を話したいが、いずれも肯ける優れた人物には違いない。彼らはいずれも権力の座にありながら、権力に立ち向かい、弱意立場に向かっていったことで共通している。前3人は政治家であり、一人は思想家、日蓮は宗教家である。いずれにしても、上に立つ人は弱者への意識を届けられないようでは、後世にその名を残こすのはむずかしかろう。

 半面、日ごろのの実績が後世の歴史に消え去らない悪名を轟かせ続けることにもなることも忘れてはなるまい。さて、今、わが宰相はどっちの代表になるのだろうか。

 ちなみに、内村鑑三の墓碑には、二つの「J」に捧ぐ」とある。ひとつはJesus Crist  の「J」でり、もう一つの「J」はJapan である。彼は日本を愛する思想家だった。

やさしいたいがー


おせちづくりに挑戦

2016-01-02 18:21:53 | 日記・エッセイ・コラム

最近、自分で少しは料理をしないと生きていけないわよ、と妻から脅しを受けていたので、よし、それならばと年末お正月に向けて料理に挑戦することにした。種類は自分の力量を思い、いたって簡単なものだ。 

なます、サツマイモのゴマかけ、ポテトサラダ、そして野菜7,8種の七福煮だ。たったこれだけなのだが、腰が痛くなるほど時間がかかったことはいうまでもない。やってみて毎日毎回厨房に立つ妻の知恵と腕に今更のごとく感謝する思いがしたのだ。 

一応参考資料をネットや本で下調べをしての作業なのだが、20分で出来ると書いてあるので、この程度ならと思ったのが間違いだった。たとえば、なますを作るにしても、ダイコンやニンジンの切り方、量、そして合わせ酢のバランスなど、専門家のようにはいかない。当たり前だ。それでも何とかできた。 

次は七福煮だ。ニンジン、里芋、ゴボウ、高野豆腐、インゲン、こんにゃく、シイタケ、レンコン。これだけを煮込むものにした。サトイモは六角に切る。こんにゃくは手綱型に、シイタケは一晩つけておく、などかなり手間のかかるものを用意し、大きな鍋に並べて煮込んだ。そして冷ました後、重箱に詰めてみた。恰好だけでも正月を迎える形が整った。一応妻からは合格点をもらったのでひとりほくそ笑んだ。 

 これで二人きりの新年を迎え、金杯でささやかに乾杯をし、これまた自分で作った清まし雑煮に紅白の餅を入れて舌鼓を打った。新年を寿ぎ、落ち着いたところで年賀状に目を通し、旧友や親友など、お世話になった人々の表情を思い浮かべながら一日を終えた。昨年は体調を心配しながらの一年だったが、今年も油断せず、ゆったりと過ごしたいとひそかに誓った年明けだった。

 やさしいタイガー


穏やかな新年を迎えて

2016-01-02 16:57:01 | 日記・エッセイ・コラム

 2016年は穏やかに明けた。各地では新年を祝う催しが行われ、いかにも日本人らしい新年の迎え方をしていた。例えば成田を立った飛行機の中で雲間から初日の出を見たり、伊勢神宮の大鳥居の間から昇る朝陽を参拝するなど、ちょっとした日本の風物詩のような光景があった。また多くの神社では初詣の姿が見られ、おさい銭を投げ入れては何かを祈願する様子は微笑ましく、小さい子どもたちも晴れ着姿で手を合わせていた。自分の幼い時代を思い出してしまった。

 こんな光景を見ていると、日本人は信仰心がいかにも熱いように見えるが、必ずしも信仰と結びついているとは思えない。むしろ過去の時間を洗い去り、新しい時を迎えるにあたって自分の決意を神様に聞いてもらう、といった麗しい甘えなのではないか。「神様、あなたがどんな姿でいらっしゃるのかわかりませんが、どうか私の願いをかなえさせてください。目指す大学に進学できますように。また結婚できますように、今年こそよい相手を与えてください。・・・」と。しかし、たとえこうした願いが成就できなくとも神様を恨むようなことはない。むしろ自分が努力しますという自己宣言をしているようなもの。

 日本の八百万の神様はさぞ忙しいことだろう。日本人はこのようにして新年を祝い、間もなく始まる日常生活に喝を入れていくのだと思う。伝統や風習は現代社会にマッチしなくとも、時々こうして原点に返り、心を洗うことがあってもよい。やはり日本人は元旦には新鮮な気持ちと厳粛な思いがわいてくるものだ。いいことだと思う。

やさしいタイガー