ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

主権回復と屈辱

2013-04-29 12:19:29 | 日記・エッセイ・コラム

 4月28日、与党と政府は「主権回復の日」と称した式典を催しました。いっぽう沖縄では同じ日を「屈辱の日」として全島で集会を持ちました。この違いをどう見たらよいでしょうか。

どうも今の阿部政権と自民党は、大勝した先の衆議院選挙の余勢をかって、どんどん腑に落ちない言動を続けていて、まるで一気に右旋回しているように思えてなりません。

 

阿部さんは、この式典でまるで今まで日本が主権を持った国でないようなことを話し、さらにとってつけたような奄美、小笠原、沖縄のことを思い、寄り添っていきたい、とも語りました。<o:p></o:p>

 天皇まで迎えての政権与党主導の式典の背景に何が隠されているのか、少しずつ見えてきました。どうも沖縄などの抵抗を受けての言い訳にしか聞こえてきません。

 最近の一連の動き、すなわち中国や韓国との関係悪化を引き起こす閣僚たちの靖国参拝、領土問題への取り組み、さらに憲法改定への急ぎ足などは、他の国から見ると、挑戦的で危険な国に向かっているように見られても致し方ないのではないでしょうか。

 アメリカでさえ、今の阿部政権の内閣や国会議員の靖国参拝などの行為は、行きすぎだと迷惑がっているような報道が出ています。自重を促しています。

 私たちの目から見ると、北朝鮮の動きはまさに危険な国としか見えてきません。実際に戦争を起こす国ではないかとさえ思わせる威嚇的行為のように見えます。逆から見ると、日本はそんな様相を近隣に与えていないでしょうか。このような行動は、当然賛否に分かれるもので、だんだんと世相は二分化され、けじめのつかない方向に向かいやすいのです。

 なぜ、誰でもわかるようなことを、あえて政権側はするのか、次々と日本の良さを失っていくような気がしてなりません。また「愛する日本、美しい日本」という耳ざわりの良い言葉も飛び交っていますが、その概念すら観念的で、阿部さんのいう「美しい日本」と僕が考える日本社会とはずいぶんかけ離れています。このようなことを国民は望んでいるとは到底思えません。

美しい日本は、大量の被曝した広島,長崎を思い、戦後も沖縄を取り残し、今も米軍の占領下にあるような危険な状態に解決してこなかったことからの解放こそ、取り戻せるのではないかと思うのです。<o:p></o:p>

 今、この緊迫した情勢の中で、主権国家を表明する必要がどこにあるのか、沖縄の痛みをどうすればともに担うことができるのか、この機会に考えないといけないのでは、と思います。

やさしいタイガー


季語を味わう日本人

2013-04-28 12:03:44 | 日記・エッセイ・コラム

 先ごろ、日本気象協会が「季語のことば36選」を発表しました。5月は「風薫る」「鯉のぼり」「卯の花」となっています。どの言葉も日本ののどかな風景を思い出させる抒情的な季語です。なんとなく、初夏が近いことや田植えの季節が近づいていることも思い浮かべることができます。そういえば、4月29日は「みどりの日」でし た。<o:p></o:p>

 元は昭和天皇の誕生日ということでしたが、なぜかみどりの日になったのです。もちろんそればそれでよいのですが、昔から、日本には限りないほどの季語がその時々の季節感を表していて、なんだか季節の速さすら感じとらせるほどです。<o:p></o:p>

 こうした季語はもともと中国の二十四節気に習うことが多いのですが、それを見事に日本風にアレンジしたのが、俳句の世界ではないでしょうか。<o:p></o:p>

 だからというわけでもないでしょうが、俳句の専門家のいう季語と気象協会の紹介する季語との間にいつも論争があるそうです。ちょっとしたことで論じ合うことは、論争を嫌う日本人には珍しいことのように見えますが、その背景にはだんだんよき日本語がなくなっていくことへの危惧が見て取れます。また気象協会のいう季語は、季節の変化を科学的論拠で予想しているようなので、自然の営みを丁寧に説明しているのでしょう。<o:p></o:p>

 いっぽう俳句を嗜む人々は、情緒的にとらえた季語を大事にしているようです。だから美しい句が生まれていくのでしょう。甲乙つけがたしというところです。<o:p></o:p>

 もう一言付け加えるなら、南北に長い日本は、北国と南国との季節感がまるで違います。一般的には5月といえば、もう、緑も映え、空の青さも一段と深くなっていきます。

しかしながら、北国に住んでいると、未だに暖房から解放されず、桜を味わうには早いのです。だから季語もずれて感じてしまいがちです。<o:p></o:p>

 今日日常語の中でももはや使われなくなった言葉、使うと何となくダサいといわれそうな表現語、さらに短縮した言葉が横行することによって乱れる日本語、といった乱調さが目立ちつつあります。同時に難解な日本語も生まれていきます。世代語とでもいえばよいのでしょうか。ぼくのような年代になると、どうしても季節語を大事にしたいという思いが募ります。

 そこには先人の作った言葉の美しさ、心のうごめきなどを感じ取るからかもしれません。まさに5月は「薫風の季節」です。理屈よりも肌で感じるさわやかな風に心を豊かにして楽しみたいものです。

やさしいタイガー 


なかなか調子いいんじゃない、阿部さん

2013-04-20 17:23:40 | 日記・エッセイ・コラム

 このところ、総理大臣の阿部さんの打つ矢は、一見調子よさそうに見えますね。この3年半ほど担当した民主党の色あせぶりが一層際立っています。やはり時代の読み解きや果敢に挑戦する姿勢には、多少危険性が伴ってはいても、世の中を面白くしてくれることは、活気があっていいのかもしれません。

 けれどもやっぱりどこか走りすぎていて、冷静に社会を見て、国民が本当に求めていることは何かを見つめる俯瞰的な姿勢にかけていないだろうかと危惧を持ちます。

 政治という分野は、あまり信用されないところもあり、議員たちの抜け道探しを見ていると、やっぱり軽率さを禁じえません。本当に正義感にあふれ、まっとうな考えを持って国民に信頼される議員を生み出すにはどうしたらよいか、いつもいらだってしまいがちです。

 秋には参議院選挙が行われる予定だそうですが、早くも各党は候補者探しをしていて国政どころではないのかもしれません。そこへ持ってきてネットによる選挙運動を可能にする法案を通してしまいました。

 たしかに今のような情報化社会にあっては、SNSという手法を理解できず、パソコンも操作できない議員は通用しなくなるかもしれません、こういう人を[絶滅危惧種」と呼んでいるそうで、今や貴重な存在になるかもしれないのです。

 「ぼくは筆党で、縦書きだ。漢詩を重視している」という野党の党首もいるそうで、教養豊かなことはわかりますが、時代の潮流に乗れない人は、国政の中枢に入ろうという考えそのものがあつかましい時代になりつつあるのです。

 こんなに次々と手を打つ阿部政権というより、阿部さん個人のパフォーマンスは、今の国民の思いと符合しているのでしょうが、できるだけ踏み外すことのないようにしてもらいたいと願うばかりです。

 何よりも戦争に向かうような政策だけは、何としても避けるべきだと思っています。 喧嘩というのは、互いに攻めあったり、威嚇することによって大きく傷を作ってしまうのです。あえてそんな危険な道にだけは進めてほしくないと念願しています。憲法記念日が近づいていますから。

 大事な時期だけにそう思うのです。

やさしいタイガー


カフェ・ムンク?

2013-04-13 10:44:22 | 日記・エッセイ・コラム

 札幌はようやく長い冬から解放されそうです。とはいえ、まだ油断はできません。なにしろ桜の開花が5月の連休明けというのですから、例年通りとはいえ、春まだ遠し、というさびしい実感です。それでも穏やかな日の光が差してくると、つい外に出て美術展にでも行ってみようかという思いが募ってきます。

 ところがまたそんな思いを踏みつけるような事態が起こりました。激しい腰痛です。動作もすっかり緩慢になってしまい、苦闘中です。

 退屈しのぎにネットニュースを見ていますと、東京渋谷に「カフェ・ムンク」というギャラリーが特設され、今月28日まで開店しているというものでした。あの「叫び」で有名なノルウェーの代表的画家エドワルト・ムンクが生誕して今年がちょうど150年になることから、年代ごとに描かれた「叫び」の作品など37点のレプリカが展示されているそうで、ノルウェーからわざわざ観光関連の重責のある方が来日し、オープニング・セレモニーを行うほどの力の入れようです。

 このカフェには、ムンクのグッズなども売られ、北欧のコーヒーやムンクの好きだった食べ物も再現されているとのことでした。売りあげの一部は、東日本大震災福島プロジェクトに寄付されるという心の優しさをも添えられているそうです。

 有名な「叫び」は解説用のイヤホーンもあるそうですが、画家自身の言葉としてこんなことを傷害しています。 「叫びは二人の友人と歩いていると、見る見るうちに空が血のように染まっていく。僕は疲れを感じて立ち止まり、棚にもたれかかった。青黒いフヨルドの街の空が血と炎に彩られた。友人は僕を置いてどんどん行く。僕はそこに立ち止まったまま不安に身を震わせた。その時、自然を貫き大きな終わりのない『叫び』を感じた。」と。

 ぼくは一度だけ鑑賞したことがありましたが、とても印象的でした。そこには作家の苦悩や人生のつらさなどが伝わってことを思い出します。

 東京というところは、世界的な都市だけにいろんな企画に満たされており、さぞ楽しいことであろうと想像しますね。

 因みに1895年の原画は昨年96億円で落札されているそうです。小春日和の日夢かうつつか幻か、トロリトロリしながら名作に触れるなんて、これが人間の最も幸せな刻かもしれませんね。

やさしいタイガー 


本当に戦争を仕掛けるつもりか

2013-04-05 14:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

 どうもこのところ、国際社会はきな臭い動きのようで、とても危険を感じています。北朝鮮は、ミサイルの発射準備をしたとか、韓国をはじめ、アメリカにも、そして日本にも威嚇的で挑戦的な情報を流し、まさに戦争前夜のような様相を呈しています。本当に戦争し、核でも使用するのでしょうか。

 そんなことをすれば、自国の国民も巻き込み、国自体が崩壊する危険性があるということを自覚しての言動なのか、どうも気になる毎日です。

 日本政府も、核保有を巡って国際社会と連携して、一層厳しい制裁を発表しています。アメリカはもっと冷静に、と呼びかけているようですが、北朝鮮の為政者は、自分たちの国に他国が攻めてくるという感情的な受け止めをしていますが、どこの国が北朝鮮に戦争を仕掛けようとしているのでしょうか。韓国か、はたまたアメリカか、まさかそんなことはあるまい。どうも北朝鮮の信頼度がどんどん下がっているようで、人々が気の毒にさえ思います。

 日本には在日朝鮮人も住み、日本社会に同化しつつ、祖国に強い関心を寄せているのは当然です。先ごろ朝鮮総連のビルを買い取った鹿児島の寺院は、この国から最高の勲章を受けているそうですが、今後も何らかの形で関係を保とうとしています。下心さえなければいいのですが。

 こうした現実を見ながら、私は、41年に日本がハワイに奇襲攻撃をし、いかにも強大な国であるかを誇示し、国民を鼓舞してきた忌まわしい歴史があります。こんな大きな国々を敵に回して勝てるわけがないと批判の声もあったようですが、結局軍部が独裁的に戦争に突入したという苦い経験を持っています。軍部が実権を握るとろくなことがないはずです。

 そうした歴史に立って、あえて北朝鮮が国際社会の中で孤立の道を歩んでいけば、閉塞感を打破するために、大変な事態になるのではないかと危惧する一人です。

 武器の能力も高度なのか、国民の大多数が飢えに苦しんでいるというのに、放置しているかのような振る舞いは、どこの国であれ、為政者のまさに私物化のように見えます。人間観を疑います。

 何とか外交交渉によって解決できないものか、関係国の指導者は一体どうしたいのか、どうも伝わってきません。日本とて同じです。何を求めているのか、はっきりしません。それが外交というのであれば、とてもむなしく見えてしまいます。

 平和という言葉が色あせてくるようで、結局のところ所詮言葉上の遊びであるのなら、今までの努力はなんだったのか、と問いたいですね。戦争を知らない世代の中枢は、もっと歴史に学ぶべきで、ゲームのような姿勢で取り組んでいる姿に戦争を体験した世代の一人として、憤りを感じています。

やさしいタイガー