ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

エンペラーの存在

2013-07-28 11:22:51 | 日記・エッセイ・コラム

 期待して待っていた映画が始まりました。「終戦のエンペラー」を初日に観てきました。やはり内容が内容だけに、比較的年齢の高い層がきわだっていて、しかも7割がた埋まっていましたから関心の高さを示しているのでしょう。

1945815日、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をし、長い戦争に終止符を打った日から、やがて連合国の日本の復興に着手する動きから始まります。 

8月15日のことを僕は今も覚えています。 

灼熱の太陽のもと、命令されるまま近隣の人々は広場に集まりました。そこには白いクロスをかけた机の上に小さなラジオが置かれていました。やがてそのラジオから、よく聴き取れない声が流れてきました。小学校低学年の僕は目の前で何が起こっているのか判断もつかないまま突っ立っていましたが、そのうちに周りの大人たちの間から押し殺した嗚咽が漏れてきました。幾時間が経ってから、日本が戦争に負けたのだということを知りました。

 

この映画の冒頭の場面は、焦土と化した日本に連合国軍最高司令官であるマッカーサー元帥が、厚木飛行場に降り立った姿を大きく描いていました。彼は、日本軍部の報復を予想されながらも、あえて武器を携帯せず、サングラスをかけ、長いパイプをくわえて降り立ったのです。血気にはやる兵士たちを安心させるためでした。見事な演出です。

 

もう一つの印象的な場面は、天皇がマッカーサーと接見するところです。これは極めて重要な部分で、天皇を現人神と崇めるよう国民に強制してきた軍部や重鎮たちは、マッカーサーに天皇を面会させるなど考えも及ばなかった出来事です。

ちょうどアメリカはこの戦争の責任者は誰かを懸命に追及し捜索していた時期でもありました。燕尾服姿の天皇と腰に手を当てたマッカーサーとの写真は、後に大きな批判を浴びた情景ですが、経緯がよくわかるような場面にしていました。

接見の場で天皇は自ら発言し、戦争の責任は自分にある。いかなる処罰も受け入れるとマッカーサーに告げます。クライマックスです。 この映画はアメリカ側から撮影されていますから、当然視野に入れていたことでもありましたが、しかし、マッカーサーは天皇に、日本の復興にお力をお貸しいただきたい、と応答するのです。

つまり、天皇の戦争責任は問わないという意思表示です。当然本国との考えとは違う判断です。

 

もともとマッカーサーは、日本の復興には天皇の力が必要だということを理解していたようです。いかなる状況になろうとも天皇を崇拝する感情は強く、もし天皇を裁きの場に送りだせば、国民は暴動すら起こしかねず、とても復興は難しいとも判断していたからでした。

 

こうした場面は、おおむね歴史が示していることと大差はありませんが、すべての重要な資料を隠ぺいしたり、無価値にしたり、廃棄する日本の体制とは違い、私的なメモ一枚でも保存するアメリカの価値観の違いを見せつけられた思いをしました。よい映画だったと思います。

 

あれから68年、今や戦争を知らない世代が国の中枢を担う時代です。次第に戦争体験者が減少していく中、戦争を煽るような動きや威嚇が起こってきています。いかなる国であれ、いかなる理由であれ、戦争を肯定することは許されません。 

「平和」と「安定」と政府がよく使う言葉はどうも重みを感じません。この年の8月、体験を忘れることなく、謙虚な国にしていくことを誓い直す季節だと思っています。

やさしいタイガー 


人間関係は3かけと3かんの心得で

2013-07-18 15:09:46 | 日記・エッセイ・コラム

 世の中には、いろんな分野で優れた才能を発揮する人が多いのに、いつも刺激を受けます。先日、大阪のある民間放送のラジオを聴いていたら、一人の女性ゲストが出ていて、その方が出版された本の紹介を兼ねてのインタビュー放送が聞こえてきました。

 おっとりとした関西弁の語り口は、どこかやさしいお人柄を彷彿とさせるものがあり、最後まで引きずられるように聞き入ってしまいました。

 で、この方は、12年間ある航空会社の客室乗務員をされた後、独立してコミュニケーション開発のような団体を主宰されて、マナーや話し方などの訓練をしている方です。さきごろ一冊の本をお出しになりました。

 「100%好かれる1%の習慣」というタイトルで、要するによい人間関係を作るには、日々の生活の中からちょっとした心得があればできるということです。そういえば、とかく世の中腹立つことや周囲に対しても「われ関せず」といった人は確かに多く見受けます。いったい日本人はやさしいのか、相手への関心が薄いのか、しばしば戸惑うことがあります。

 この方から受ける空気は、自分を振り返ることができない人は、周囲への気配りができない人に多いということのようでした。それにはこんな心得が必要なのではと言われます。

 「目をかけ、気をかけ、声をかけ」の「3かけ」だと。なるほどそう思います。どれも簡単なようで、いざとなるとうまくいきません。幅広く人と付き合っていると、立派な人は多いのですが、反対の人もまた少なくありません。

 世の中、すべて自分の好みの人ばかりと付き合っているわけではありません。表面的な付き合いで済む場合は、何も考えずに遠ざかっていけばよいのですが、やはりいろんな人との関係を豊かにしていくには、まず自分が発信者にならなければなりませんよね。目と気と声をかける、それは大事なことなのです。

 さらに人間関係をうまく推めるにはもう一つあるのです。それは「3かん]というのです。

 「共に感じる 共に汗をかく 共に歓ぶ」と言われていました。どれも「かん」と読みます。うなづける言葉です。やさしいようでいざ実行となると、難しい気もします。

 これらに含まれている金言は、たった一つ、自分から変えていこうという姿勢があるかないかです。人間はちょっと耳が痛いような言葉は聞きたくないし、うっかり発言を指摘されたら、急いで言い訳をしたり、居直ってみたりすることもよく見かけます。明日の自分のためには今日から磨いていくことを大切にしないといけないとも思います。僕は謙虚になることでは、と思っています。

 人は何歳になっても、成長しようという意欲を失ワなければ、新しい発見があるものです。僕はそう信じています。なかなか理屈通りにはいかないこともあるでしょうが。

やさしいタイガー


山男の話

2013-07-17 10:57:29 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに、旧知の間柄の6人と昼食をとりながらの歓談、なんと3時間も話し込みました。集まった年齢は90歳代、80歳代、70歳代そして60歳代という男性ばかり。とにかくよく話しました。集いの中心になる方は、日本山岳会の重鎮で、北海道の山岳会のリーダーでもある方です。

 Hさんは、東京の大学時代に山岳部で活動され、すっかり山に魅入られてその後ずっといろんな山に登攀された方です。今では年齢のこともあるのでしょう。山登りより、もっぱら普及や執筆を楽しんでおられます。

 ぼくは、もう山登りなどできなくなってしまいましたが、かつてはだれもが青春期の中に山登りやハイキングをい含んでいたでしょうから、話を聞きながら、わが青春時代を思い出しておりました。

 今月、富士山が世界文化遺産に登録されました。「自然遺産」ではなく、「文化遺産」というところに富士山の魅力があるのでしょうか。けれども登山する人のマナーは、あっけにとられるくらいによくない人が多いらしいのです。

 話題になっただけに、話のタネにしておきたいという調子に乗る人も多くいて、中にはハイヒール姿で登ろうとした不心得な人もいたようです。どんな山にも見えないところで危険が待っていることを想像もせずに、ただ登ればいいのだという軽い人と、真剣に取り組む人との違いはどうしようもないことなのかもしれません。

 それだけブームになったのですから、さぞ若者にも人気があるのかと思いきや、まったく思い違います。そう、高齢者が多いのです。みんな元気です。

 今、大学の山岳部は危機的状態だと知りました。東京のある大学は、山岳部はあっても部員は3人、それもカナダ人など3人とも外国人。日本の学生は一人もいないそうです。日本の若者は、こんな過酷な環境になじめなくなってきたようです。

 北大の山岳部は、入部希望者は大学生活を5年過ごす覚悟がないと活動できないとも聞きました。つまり1年は留年するそうです。 考えてみると、それだけ青春をぶつける人生とういうのは、何ものにも替えがたい素晴らしい時間と思えるのですが。

 過酷な条件とあえて危険を覚悟しながら、突き進んでいこうという若者らしい生き方は、望むべくもない時代になったのかもしれません。

 青春を燃焼させ、そして今の人生とつながっているこのHさんの話から、様々な苦労話はもちろんですが、そこに生まれた友情や共感は今も脈打っていると感じました。

 近頃の青年の多くは、「さとり世代」 ともいわれています。これといった目標もなく、恋愛や結婚にもさしたる価値も見出さず、仕事においても栄達は望まず、わずらわしい人間関係を持ちたくないという、ちょっと世の中からはぐれたがっているかのような生き方、それを「さとり世代」というそうです。

 命がかかっていることを百も承知で山に登るるという生き方と、どこか対の感じを受けますが、Hさんのように、傘寿を迎えて今も熱っぽく語る中から伝わってくる空気は、後期高齢者を大いに勇気づけたランチタイムでした。

やさしいタイガー


16歳の少女の勇気と希望

2013-07-14 15:17:33 | 日記・エッセイ・コラム

 痛ましい事件のありさまは、今も記憶に残っています。2012年10月、学校から帰宅しようとしていた少女たちを乗せたバスに突然乗り込んできた反政府イスラム原理主義組織パキスタン・タリバーンのメンバーが、一人の少女を探しだし、持っていた銃を乱射、殺害しようとした事件です。こんな非道な行為に世界の人々は怒りと恐怖を覚えたものです。

 被害に遭った少女は、マララ・ユスフザイエさんといい、15歳の時でした。頭部を銃撃され重傷を負いましたが、懸命な医療機関の治療で九死に一生を得ました。今は治療を受けたイギリスで傷も癒え、学校に通っています。

 彼女は、7月12日を「マララ・デイ」と定めた国連の招待で本部を訪れ、招待された世界の若者たちを前に演説をしました。話す言葉は美しく、力強く、ゼスチャーをまじえ、その内容は、虐げられている人たちを勇気付け、はく奪された自分たちの権利を取り戻すことへの道に希望があることを感じさせたに違いありません。

 そのスピーチはおよそこんな内容でした。(A新聞記事から)「マララ・デイは、権利を訴えるすべてのすべての女性や子どもたちの日だ。女性や子どもたちのために、教育を受ける権利を訴えたい」と。世界には貧困や政府その他の弾圧、さらに宗教上の理由で教育を受けられずに差別を受けている子どもたちが多数います。

 今回の事件は、マララさんをはじめ、勇気ある少女たちが教育を受けていることに対するイスラム原理主義者の経典に反するという理由らしいのです。

 しかし、彼女はこうも言います。「何千人もの人がテロリストに殺され、何百万人もの人が負傷させられた。私もその一人だ。その声なき人々のために訴えたい」と。そして「テロリストは私や友人を縦断で黙らせようとしたが、私たちは止められない。私の志や希望、夢はなにもかわらない」と力強く訴えています。

 重要なことは、「自分に銃を向けた人に対して恨みを抱かず、憎しみもしない]とも言っています。とても生死を分けた幼い少女の言葉とは思えないほど崇高な言葉です。こんな言葉を今の為政者たちはどう感じ取ったでしょうか。

 しかもタリバーンやすべての過激派の息子や娘たちに教育を受けさせたい、とまで話しています。何と心の広い少女でしょうか。最後のくだりは名言でした。

 [世界中の姉妹たち、勇敢になって。知識という武器で力をつけよう。連帯することで自らを守ろう。 本とペンを手に取ろう。それが一番強い武器だ。一人の子ども、先生、そして本とペンが世界を変えるのだ。教育こそがすべてを解決する。」と人差し指を高く掲げながら訴えていました。

 今の大人たちは、こうした切実な子どもの声をどう受け止めたであろうかと想像しています。ことに政治社会にある人々、宗教界の指導者の反応を知りたい思いです。恵まれすぎている私たちもまたマララさんの言葉の一つ一つをかみしめ、何ができるか問い続けなければならないとはずです。

 今年のノーべル平和賞候補に挙がっているそうですが、そんなことよりも彼女の訴えている思いを深く受け止め、一刻も早く希望や夢を与える道筋を考えていく行動力こそ、大人の責任です。

 

 やさしいタイガー


南西沖地震、あれから20年

2013-07-13 15:26:36 | 日記・エッセイ・コラム

 この日、僕はすでに床に就こうとしているときでした。午後10時15分、札幌はかなりの揺れに襲われ、「これは大変な地震が起きたのではないか」と妻に声をかけたことを思い出します。1993年(H5年)7月12日、北海道南西一帯は大震災に遭遇したのです。

 とりわけ奥尻島に住む島民198人が犠牲になりました。青苗地区にはわずか3分で津波が襲い、さらに火災をも合わせ、一瞬に人や住宅などを呑み込んでしまいました。遠くに住む知人からも安否の連絡が入ったほどです。

 着の身着のまま逃げて助かった人々は、目の前で人が流されていく無情な姿を見ながらも、自分が何もできなかった非力を嘆き、いまだに心の傷は癒されないと語っています。あれから20年のこの日、追悼式が行われました。

 海に囲まれ、豊かな詩z船とともに生きてきた人々は、島を誇っていても訪れてくれる人の減少を案じています。けれどもなお復興は道半ばだとの思いで努力は続けられています。島の人々は、今回を持って追悼式を終了するそうです。それは忘れることではなく、、犠牲になった人々呑むなんな思いと一緒に島の活性化への取り組みの決意の日でもあるのです。

 さらに追い打ちをかけるように、2年後の1995年(H7年)1月17日阪神・淡路に直下型大震災が発生しています。ぼくはこの年の3月で仕事を終え、神戸に戻ることにしていました。しかし、混乱の極にある神戸に戻ってもいかなる痛みも負えないと考え、そのまま札幌に残る決心をしたのです。無二の親友はその後震災救援に立ち上がり、街のリーダーとして東奔西走していましたが急逝しました。あんなに元気だったのに、と思うと今も心が騒いでしまいます。

 人々の記憶がまだ薄れない2010年(H22年)3月11日、今度は東日本一帯にまさに1000年に一度とも言われた大震災が襲ってきたのです。今なおその渦中にあります。しかも東京電力が保有する福島台地原子力発電所が爆発し、大量の放射能が拡散しました。福島県をはじめ、近隣に住む人々はもちろん、町や村ごと移住するという経験のない事態になりました。解決の方途さえ見通せない中、長い長い苦悩の道を強いられています。

 私たちは、こうして危険と隣り合わせに生きているのです。当然、安心と安全の暮らしを求めていきたいのですが、どうして日本の中枢を担う人々は、この思いをくみ取ってくれないのでしょうか。人々の痛みを負えないのでしょうか。

語る言葉は誠実さもなく、いったいどっちを向いて方向づけようとしているのか、疑念は解けません。こうした体質の人がいくら美しい日本を創ると叫んでも、ぼくには空しいとしか思えません。むしろ不誠実な態度に怒りと不信を抱いています。経済も大事なことは承知の上ですが、それでももっと大事なことを追い求めているのです。

 

少なくとも、3つの大震災を通して、日本人が本当に心に描いている日本の姿を、国政に携わる人々、企業のトップ、さらに地方自治体の高位のポストにある人たちは目線を下げて誠意ある取り組みを切望しています。

 心のこもった政治を熱望するのは僕だけではあいますまい。ある大臣が言いました。「うんざり一票、がっかり4年」、これはまさに国民の本音だとしたら、近づく参議院選挙も力が抜けそうな気がしてなりません。

 やさしいタイガー