ブログ人 話の広場

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軽率な言葉と深い言葉

2014-02-22 12:02:59 | 日記・エッセイ・コラム

 すごい浅田真央さんの演技。自らも信じられないといったショートブログラムの16位からフリーで一気に6位にまで引き上げた彼女の演技には、ライバルたちさえも深い感動を与え、世界中の観覧者にも感涙の満足感を漂わせた。徹夜してでも観る価値は十分にあった。プレーした後の落ち着いた感想は、さらにまた真央ファンを魅了した。

 ところがいけないのがオリンピック組織の会長の森元首相の軽々しい言葉だった。案の定批判の声が上がった。「あの子は大事なときにミスをするんだなあ」と講演で述べたというのだ。こともあろうに東京オリンピックの総元締めの言葉だ。

 ダルビッシュ投手が、スポーツ選手の本質を何もわかっていないとコメントしていた。ただ本人は柔道で鍛えたかもしれないが、必ずしもスポーツマンではなかったのではないか。もっとも今は、しがないステイツマンではあるが。

 日夜懸命に鍛練と努力を続け、心身がボロボロになるまで鍛えぬいても、結果は必ずしも思うようにいかないものだ、ということは素人でもわかっている。にもかかわらずだ。不謹慎を超えて人間の心を読めない人物なんだろうね。そんな人が世界の大会の最高位に位置づけたいと思った人たちの思惑は、われわれとは違う感性を持っているのかもしれない。情けなくなってしまう。

 どうも最近、この手の軽率な無配慮な発言が目立っている。ことに政府関係者や知名度の高い人物ほどかさにきた発言が際立っている。靖国参拝以降、「失望」発言に輪をかけて「失望声明に失望した」という政府高官、天下のNHK会長の居丈高で居直るような発言、著名作家の差別発言などなど、どうしてこうも軽業を起こすのだろうか。

 これも一つの政府の体質からきていることがわかる。無数に作られる審議会などの委員に、首相の[お友達」が推挙されているそうだから、何を言っても安心という思い上がりがあるのかもしれない。

 人間には立場をわきまえることや言っていいことと悪いことを峻別できる精度の高い姿勢と人格を求める。そんなお友達気分で選ばれる委員たちで、様々な分野の方向を決められてはたまったものではない。

 直木賞作家の中島京子さんの「小さいおうち」という本が映画化されたのは知る人には知られているのだが、もう一度読み直してみた。小さなおうちの幸せをじょじょに壊していくもの、それはまさに政治の誘導なのだということがわかる。事実を知らず、のんびりと小さなおうちで過ごしているうちに、政治の分野は敵対国を作り、戦争を仕掛けていたのだ。気が付いた時には家族は渦中にはまり、兵隊に「とられて」しまっていた。

 この小説は次第に蝕んでいく過程があるのだが、民意など組み上げる必要などないといった為政者たちの思い上がりの結果なのである。今、そんなにおいを感じさせる。要注意だ。「私が責任者だ」という安倍さんの発言も危ない。そんなことを言って責任をとった人などいないではないか。45年の敗戦の責任は一体誰だったのか、だれが責任者だと名乗っているのか、そんなことを反芻しながら、今回の言葉の重さと軽さを考えてみた。

やさしいタイガー


道徳教育に載る人々

2014-02-18 17:07:29 | 日記・エッセイ・コラム

 どうやら近いうちに、道徳教育が教科化されるらしい。小学校から中学校用に作られようとする教科書の内容は、十数人の名のある人物が上がっている。中には立派な功績のある人もあるが、どうかな、と思われる人も載っている。 

 たぶん審議した委員の発案だろうが、どうも過去の日本が国民に教育しようとした手法と全く同じであることに気が付いた。二宮金次郎は僕の小学校時代にも教わった気がする。背中に薪を背負い、歩きながらも本を読むという姿に、勤勉を教えたかったのであろう。 

 しかし、今の子供が見れば、本の代わりにスマートフォンを見ながら歩く、不心得な非道徳な人種を思い出すのではないか、と皮肉の一つも言いたい。成長した金次郎の地域における行政手腕は、むしろ今の政治関係者が読むべき大人の道徳教育本だ。

 こうした人物を現場の教師は、どう教えるのだろうか。歴史小説家が様々な人物伝を描いているが、執筆者によっては内容も表現も違っていく。先生方の価値観もあるし、人生観ともつながるだろうから、「こう教えなさい」と教本の押し付けるような安直な教育はかえって害になる。真実を知らせることができないからだ。

 どうも日本の為政者たちは、何かの形にはめ込まないと落ち着かないようだ。もっと現場の先生方の創意にゆだねたらどうかと思う。有名な人物を勉強しても自分にはとてもできないと思うのではないか。

 そんな高みからの教育ではなく、学校のある地域で生きた人と行動を探し、自分たちで研究して発表し合う方が、余程身につくだろう。地域を愛せないものが、どうして国を愛することができようか。教科書の細部は知らないので、あれこれ言えないが、為政者たちの考える教育観が欺瞞に満ちているとしか思えないのは勘繰りすぎだろうか。

 やさしいタイガー


不安定な世の中で考える

2014-02-15 13:13:56 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、以前のような政治に強い関心を寄せなくなった。理由は茶番劇のような国会論議、危険性をしのばせるトップの発言、痛いところを突かれると、居丈高に苛立ちを示すような態度、どれをとってみても、政権の危うさを感じてしまうことではないかと自己分析をする。  

 東京都知事選も、結局は自民党を中心とした体勢を都民は選んでしまった。それでよいのかどうか、都民の意思にいささか首をかしげたくなった。反原発の主張は地方の案件ではないかもしれない。だが、今、日本は大きな岐路に立っている。どのような国にしたいのか、という理念が揺らいでいて、その方向性は多くの国民が望んでいないところに向いているように見える。 

 自民党は数では一番だ。しかし、反発して投じた意思を無視していいというわけではない。何よりも危惧するのは、保守党という主張の政党ではなくなり、ナショナリストの集団に変貌していることだ。日本は決して素晴らしい先進国ではない、と思っている。 

 誠実で謙虚という精神は、一個人に求められる者ばかりではなく、国にも求められるはずだ。いつの間にか、そういう精神を喪失している。議員たちの言葉に品位がなくなり、相手への受容 姿勢をなくしている。だんだん、よそから見ると危ない国だと思われているようだ。 

  「いつでもドアはオープンにしている」という。千客万来は大いに結構だ。しかし、どんなにのれんを四六時中掲げていても、店員が鼻高でサービスもなく、商品も少ない上に、品質も悪いとくれば、どうしてお客はドアを開けてくれるだろうか。 

  どうもこういう姿勢では、良質な店とは言えまい。大事なことは、自ら進んでセールスをしてお客を呼び込むような努力と工夫をしない限り、やがて店は倒産の憂き目に遭うことを知っておくことだと思う。 

  まさに政治の危機にある、といってもよかろう。冒頭に政治に関心を寄せなくなったといったが、そんな思いを深くする隙間にとんでもない薬物を注入されていくのではないかと想像すると、やはり無関心ではいられないし、言うべきことは言う自由を保っておきたいと思ったのである。 素人の政治雑感である。 

 やさしいタイガー