ブログ人 話の広場

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横綱・稀勢の里誕生を喜ぶ

2017-01-27 15:52:31 | スポーツ

 第72代横綱稀勢の里が誕生した。やや遅咲きの感はするが、何はともあれ久しぶりの横綱が生まれ、心から祝いたい。                                  今日の午後、明治神宮で奉納土俵入りが行われた。先人の横綱はいずれもモンゴル出身だけに少し違った感慨を覚える。

 ぼくは相撲に関してあまり知識はないが、ずっと幼いころから理由はわからないが、高砂部屋が好きで、かつて前田山などが                                 この部屋から横綱になっていたし、最近では朝青龍が破竹の勢いで大いに盛り上げていたことを思い出す。

 相撲には、関取顔というのがあるように思っているのだが、稀勢の里はまさにその顔だ。ぼくはきりっとした寡黙な雰囲気が好きだ。                          横綱といえばもう負け越すことはできない。あとがない。引退しかないのである。スポーツの中でもこれほど厳しいものはないのかもしれない。                      下がればもう一度やり直せるというわけにはいかない。それだけ横綱の権威は高い。

 相撲は言うまでもなく、江戸時代からあった伝統のある格闘技であるが、今では一つの文化遺産にふさわしい。                                        だから相撲に関心があるなしに関係なく、社会的な影響を持つようになっているし、プレーヤー たちが食する「ちゃんこ鍋」は                                一つの食文化を生み出している。裸一貫の技を競うのだが、それだけではなく、ファンに応えようとする柔軟さと相撲取りとしての                               厳格さが問われるのであろう。

 誰かに注目されるということはいささか窮屈な面もあろうが、それだけに人生意気に感じるであろうし、謙虚な人生を送ることを                            大事に受け止めているのではないだろうか。一見保守的な相撲道だが、いろんな国からも加わっていく自由さも素晴らしいと思う。                              こうして外国の若い人々を受け入れる相撲協会の慧眼に大いに拍手を送りたい。国際貢献の一助だ。

 ただ心配なのは国内の若者の入門希望者が少ないとも聞く。厳しい鍛練に堪えられないのかもしれないが、そんな中に飛び込んで                           みようという覇気が薄れているのだろうか。横綱稀勢の里がこれからの若い人たちの憧れであってほしいと願うのだ。                                       そうそう今まで孤軍奮闘してきた横綱白鳳にはさらに立派な横綱であり続けてほしいとと応援したいものだ。

 やさしいタイガー


冬来たりなば春遠からじ

2017-01-23 09:48:25 | 日記・エッセイ・コラム

 北国に住むと新しい年を迎えても春は全く考えられないのだ。毎日厚い雪雲に覆われ、やがて白いものが降ってくる。                                ”今日も雪か”と嘆きたくなる。そんな季節に僕は3月分の放送原稿の作成に当たる。多分3月ともなると、さすがに北国とは言え、                                        春の兆しを感じるはずだ、と想像して書き始める。そんな時浮かんでくるのはこの言葉である。

 「冬来たりなば春遠からじ」だ。誰もが知る言葉だが、訳した人は思い出せないが、言語はイギリスのシェリーという詩人が詠んだ詩である。                                  詩は単に春が近いという季節感を言い表しているのではなく、どんなに辛いことがあっても必ず希望を見出すことができる、という意味が含まれている。                              

 放送原稿を書きながら厳冬の季節に一生懸命春を思い浮かべるのだ。それには春を表現した言葉を思い出せば何とか気分が乗る。                  たとえばイギリスの詩人ブラウニングが詠んだ「時は春」という詩がつい口から継いでくる。これを上田 敏が訳している。

 「時は春 日は朝(あした) 片岡に露みちて 揚雲雀(あげひばり)なのりいで 蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ 神、そらにしらす。                           すべて世は事もなし。 歳はめぐり、春きたり」とある。 自然を賛美しつつ、自由をもって飛翔する。それは自由と賛美の象徴なのだろう。                          人生の晩年を迎える今でこそ、味わうことができるが、習った時代を思い起こすと確か高校生時代、教科書で習ったのではないかと思う。

 そういえば、高校生時代長い間闘病生活を送ったことがあり、いつ治るのか、と不安と失意の日々だったとき、先に挙げた詩を思い出すのである。          若い時代の苦い思い出の中に残った言葉である。そして今、この季節は「春は名のみの風の寒さや・・・」と美しいメロディが相応しい。                              「早春賦」だ。原稿をしたためながら、自分の中に春の兆しを探しているのである。放送予定は3月13日である。                                         その日、札幌はどのような風がささやいてくれるのか、待ち遠しい春である。

やさしいタイがー