今日は土用の丑の日、うなぎを召し上がったでしょうか。誰がこのような美味な料理を発見したのかよく知らないが、世界の70%は日本人が好んで食べる民族で世界でも珍しい。だが近年は自然うなぎは激減し、50年前と比べて10分の一になったとか。
だからほとんどは輸入物で養殖うなぎが多いそうだ。減少した理由の一つに乱獲が挙げられているがどうやら生態が謎らしい。今うなぎを巡っては世界中で論議されている。「日本うなぎ」は昨年とうとう絶滅危惧種に指定されてしまった。どうやら稚魚の養育が難しいらしいが、さらに成長していく過程も難航しているとも聞く。その理由の中に海や川などの人工的開発が原因とも言われている。
しかしそこは英知を発揮するのは日本人の良さ。専門家は目下開発に努めていて、最近のニュースを観ているとかなり稚魚が生まれ、成長うなぎが増え値段が急速に下がっているらしい。朗報だ。夏の終わりころには食卓に値段の下がったうなぎを賞味できるかもしれない。
だが喜んでいいのか、ここはひとつ立ち止まって考える時にしたい。何もうなぎばかりに目を向けて一喜一憂するのではなく、地球の環境についてもこの際、しっかりと考えていく必要はないかと気が付くのだ。いろんな野生生物は人間が生きていくために重要な糧であり、私たちのために彼らは生きているのではないか。
だから、私たち日本人の美風として「いただきます」というのだ。つまり生きとし生けるものの命をいただいているという感謝と謙虚から生み出されている。粗末に食べたり当たり前のように口に運ぶことは許されない。
今、社会をよく見ていくべきだ。経済進展のために、あるいは長い間培ってきたよき風習や思い、そして価値まで奪い去ろうとしている危険性が日本にある。たとえば原発の放射能の拡散は人の命も家も生活も仕事もやさしい人間関係まで引き裂いてしまった。だれも責任を感じていない。解決を後回しにしてでも、経済のことばかり目を向ける今の政治の有り様にはますます違和感を持たざるを得ない。
オキナワの基地移転も同じ視点で考えている。県民の感情が二分し、近く実施される知事選挙は辺野古を基地化することで推進派と反対派とが真っ向から向き合う選挙らしい。私たちはこの姿を第三者的に見ていてはならないと受け止めている。美しい辺野古の海はサンゴ礁が育っており、澄んで七変化する海は大事な財産だ。私たちはどんなに自然と向き合っても、絶対に勝ることはできない。そしてひとたび人口化すると、二度と元に戻らないことは先人たちは教えてくれる。
うなぎと基地移転を同列に扱うのはおかしいのかもしれないが、うなぎをこよなく愛するがゆえに、これからの成長を願って何が何でも「うなぎ」だ「かば焼き」だといわずに、しばらく耐えることも大切ではないだろうか。まさに元の地球に少しでも返していくためにも。
沖縄の苦悩を知るだけに、人々の痛みを分かち合うために美しい海をつぶして基地にしてしまうなんて暴挙は許さないよう意思を示す必要があろう。もう一度考えよう。人間はどんなに知恵や知識や技術が進化しても自然への尊厳を失ってはならない。あまり経済ことばかりに意を注ぎすぎると拝金主義国家になる。私はそんな国になってほしくないのだ。
やさしいタイガー