ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

50年前の足踏みミシンの運命

2013-08-29 08:51:07 | 日記・エッセイ・コラム

 家の中の整理をしていた妻が、思い切って「足踏みミシン」を処分するといい出し、惜しむように最終テストをしていました。処分と言っても誰かにもらってもらうか、廃棄物として引き取ってもらうかしか道はありません。<o:p></o:p>

 たまたま近所の方が、洋裁を教えているとの情報が入ったものの、今やコンピュータで動く時代のミシンと違い、何しろ足踏みだけに貰い手はないだろうと話のついでのような思いで話したところ、ちょうどほしいと思っていた矢先だと色よい話になり、見ていただいた結果、ラッキーな無料譲渡は成立しました。<o:p></o:p>

 今まで我が家では、頑丈な板の上に人が乗ってもびくともしないし、機械もピカピカだし、きちんと動く年季の入った代物だけにモノを乗せる台に変身していました。<o:p></o:p>

 妻は今更のように、手放す寂しさを囲っていましたが無理もありません。15歳の時に父親から買ってもらったものらしく、いわば形見のような品物だっただけに惜しむ気持ちはよくわかります。50年以上も経った今でも動く代物は、かなりの値打ちものです。おそらく足ふみ型ミシンは、今では見かけることもないのではないでしょうか。<o:p></o:p>

 かつて母親が夜なべをしてガタガタと軽快な音を響かせながら、いろんな繕い物などを修復している姿を思い出します。今の時代、こうした機械は精密化して自分の意思より内蔵した操作に任せるようになり、人間の知恵も工夫もなく、あなた任せになりました。<o:p></o:p>

 悪いことに我が家のかなり大きな冷蔵庫がある日突然動かなくなってしまいました。 大変です。購入先に連絡すると、今はもう備品がないので故障したら廃棄するしかありませんと言われてしまいました。<o:p></o:p>

  わずか17年前のものです。それにしても寿命が早すぎます。最近の機種の多くは10年もすれば買い替えるような仕組みにしているとしか思えないのです。パソコンも同類です。<o:p></o:p>

  昔の生産者は、技術は今ほど高度ではないとはいえ、しっかりと製作し、使う消費者も「もったいない」精神が横溢していて、大事に使うことを旨としてきました。それが無用の長物になっていくとは、悲しいことです。<o:p></o:p>

  何ごとも合理的に考え、即物的に行動する現代人の私たちは、いつしかいろんなことへの値打ちを下げてきているのではないかと見えます。ぼくは今の時代を「残す文化」から「捨てる文化」に変容していると評定しています。人もこうした構造の中で「捨てられる」運命に立たされているような気がして、背筋が寒くなっていきがちです。<o:p></o:p>

  それぞれの家庭が小さな宝物として後生大事にしてきたものが、今や一文の得にもならない「捨てられる」という邪魔物になることに、どこか割り切れない思いを強くしています。一世代前の人間だからでしょうか。

やさしいタイガー 


人生を彩る音楽

2013-08-24 15:35:03 | 日記・エッセイ・コラム

 8月中旬、2か月に1回の例会に出席しました。いつもなら10人は集まるのですが、どうしたことか今回は4人でした。さぞ話題が途切れ、2時間は持たないのではないかと思いましたが、まったくの杞憂に終わりました。尽きぬ話題、途切れることのないおしゃべり、みんな元気なんだ、と大いに刺激を受けた時を過ごすことができました。 <o:p></o:p>

 ことに面白かったのは、今まで互いに気づきもしなかった興味が見事に一致したことでした。それは音楽でした。しかもオールディズを懐かしく描きつつ、われら青春時代と重ねている事でした。<o:p></o:p>

 中でもルイアームストロングはみんな好きでした。どこか心に訴える力があると感じていたのです。サッチモの枯れた声は今も強烈な印象を与えます。<o:p></o:p>

 そんな話を続けていたら、自分の好きな曲が次々と挙げられ繋いでいきます。チャップリンのトーキーが大好きという一人は、一番好きな曲は「Smile」だといい、ついに歌いだすのでした。しかも原曲で。みんなはそれにつられてハモってしまいました。いい曲です。<o:p></o:p>

 またもう一人は、「Amazing grace」でした。しっとりとした祈りは確かに心に訴えてきます。お二人は、最後の時にこの歌をみんなで歌ってほしいとか。すっかり盛り上がった歓談でした。<o:p></o:p>

 そういえばラジオ番組の中で、ジャズの音楽評論家がサッチモの音楽についての名言を紹介していました。音楽には2種類しかないというのです。それは「よい音楽と悪い音楽」です。ではよい音楽とは何か。どう思われるでしょうか。サッチモは「自分が心地よいと感じたものはすべて良い音楽」だといったそうです。そういえば納得します。では悪い音楽はどうなのか、実はコメントをしなかったらしいのです。<o:p></o:p>

 多分、悪い音楽などないのかもしれません。ただ自分に合わない曲を排除しているだけなのでしょうか。<o:p></o:p>

 ぼくが今出演している番組の中で、1時間の間に数曲の音楽をかけていますが、どうしても自分が心地よいと思っているものに偏ってしまいがちです。リスナーの好みと合っていないかもしれないと思いつつ、僕にとっては良い音楽となるのです。音楽は実に幅広くて生き方にも左右するほどの力を持っていることに気づきます。疲れたとき、悲しい時、つらい時に聴く音楽は起死回生につながりますし、嬉しい時、喜びに満ちたときに聴く音楽は心の豊かさを倍加してくれるようです。<o:p></o:p>

 たった4人という集いでしたが、笑顔と笑いを引き出す時間は、言葉には出さないまでも感謝と明日への力をもらったような気分でした。

やさしいタイガー 


はだしのゲンが泣く

2013-08-22 11:46:22 | 日記・エッセイ・コラム

 漫画家の中沢啓二さんが精魂込めて描かれた「はだしのゲン」の作品が、島根県出雲市と鳥取県の教育委員会から各学校に子供たちに自由閲覧をやめるように通達され、校長はいつしかこの本を開架から撤去を命じていたのです。理由は残酷な表現があり、子供の教育上よくないという判断によるものらしいのです。一人の保護者からの連絡が端を発したものでした。

 中沢さんは、子どもに多少見せたくない部分もある、とは述懐されていたそうですが、それにしても各学校の教員たちは、戦争や原爆の出来事をどうとらえているのでしょうか。避けて通るべきことでしょうか。<o:p></o:p>

 今、多くの語り部の高齢化が進み、どう継承していくか関係者は頭を悩ませていますが、どうして史実を正しく伝え残そうとしないのか、悲しくなります。実際は漫画の表現よりもっと残酷で悲惨です。しかも下村文科大臣は、今になってこの著の表現に、いかがなものか、と批判的なコメントを出しています。こうした体質が中枢の間に依然としてある以上、歴史の記録が否定され歪曲されていくのです。だから近隣から回帰的な日本を危険視されるのです。<o:p></o:p>

 批判をする人は、今の社会をどう見ているのでしょうか。公園で一人でも安心できる環境にありますか。一人で登下校できる町はどの程度あるでしょうか。子どもの人権を守られているでしょうか。<o:p></o:p>

 むしろ危険な行為をおこすのは、大人たちが大半です。あまりにも狭視的です。政治や社会、さらに教育にいる中核者は、重たくとも未来のために、決して歪んだ解釈によって操作した誘導はすべきではありません。<o:p></o:p>

 さきごろドイツのメルケル首相が、かつてユダヤ人を虐殺した収容所を訪れ、瞑目した後、哀悼の意とともに「実に恥ずかしい」ということを話していたそうです。ここはアウシュビッツ収容所の原型となった収容所だそうですが、メルケルさんの自責と自省の念は、ずっとこれからも戦争を知らない世代にも引き継がれていくに違いありません。過去にいなくとも国家が起こした罪はずっと後世の人が担い続けなければいけないのです。だからこそ美化したり、賛歌するような戦争観があってはならないのです。またそんな危険な道を作ろうとすべきではありません。<o:p></o:p>

 悲しみをいっぱい心に抱きながら、被曝や戦争体験を後世に語り継ごうとする人々の勇気と辛さをもっと広く深く受け止めていってこそ、私たちは平和のありがたさを感じ取れるのです。いかなる戦争も勝ち負けはないのだという真実な体験を決して無駄にしてはならないはずです。<o:p></o:p>

 戦争の苦しみは誰もが心の痛みとして生涯遺されていくものです。ぼくもそう受け止めている世代です。決して風化などしていないし、風化させてはいけないことです。<o:p></o:p>

 多少子どもにとっては残酷な表現だとしても、勇気をもって読み続け、そこに描かれた内容から原爆はもとより、いかなる戦争も正当性を認められない人類最悪の犯罪だ、ということを強く教えていくことが大人の責任だと僕は思います。<o:p></o:p>

 現場の教員たち、しっかり伝えてください。

やさしいタイガー


68回目の敗戦の日を迎えて

2013-08-15 15:14:46 | 日記・エッセイ・コラム

 今年も暑いあの日のことを思い出していました。 連日空襲警報のサイレンにおびえながら、近くの庭に掘られた壕に近所の人たちと一緒に逃げ込み、敵の攻撃を耐え忍んでいました。9歳の僕には戦争に勝つとしか教え込まれていなかっただけに、負けるなど想像もしていませんでした。<o:p></o:p>

 8月15日、真夏の暑い日でセミが耳をつんざくように鳴いていました。正午になって近くの広場に集められた地域の人たちは神妙な顔をしていました。それは天皇陛下から重大なお言葉があるという事前の知らせがあったからで、それまで天皇の声を聴くなどあり得ないことでしたから、内容がわからなくとも何ごとと思っても仕方がないことでした。ましてや幼い少年にとっては大人に言われるままについて行ったにすぎません。<o:p></o:p>

 しかし、事は大変重大でした。古いラジオから流れる音は雑音で聞き取れませんし、難しい言葉遣いは理解もできません。後で聞かされるのですが、一言でいえば日本は戦争に負けたという一語でした。負けたんだ。これで空襲がないという安堵感が先でした。その日から敵の襲撃はなくなり、相変わらずの蝉の合唱はあるものの静かな田舎になりました。おそらく誰もが、もう戦争なんて嫌だ、と思ったに違いありません。<o:p></o:p>

 成長し理解力や物の判断ができるようになって、この戦争の意味はなんだったのか、次第に問い始めました。ぼくの心の中に、いかなる理由をつけても、戦争の罪悪性は逃れられないこと、政治の中枢の責任が重いことなど、平和の重みを感じ取るようになっていきました。<o:p></o:p>

 武器を持ち軍備を保有する軍部は、えてして暴走していくものです。大きな軍部を持つ国の動きを見ていると、悪魔性を除去できないのです。我が国は敗戦後、平和と主権、そして人権を国是としました。68年を経た今、どんどん戦時体制を思わせるようなもくろみが際立ちつつあります。戦争を知らない世代の過激な動きの加速が気になります。<o:p></o:p>

 その第一が憲法の変更への動き、自衛隊の海外派遣と集団自衛権の行使です。戦争状況に自衛隊員が赴くということです。当然死者も出ますし、相手を傷つけることにもなります。自衛隊のご家族はやむなしと思われるのでしょうか。国民の意思を消し去り、国家のために身を捧げよというのでしょうか。<o:p></o:p>

 さらに2011年東日本は大震災に襲われ、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故を起こし、核の安全性に疑問を提示ました。にも拘わらず、原子力技術の輸出など、疑惑の行為をしています。国民は望んでいるのでしょうか。また相次ぐ国会議員や閣僚の失言、どうみても政治は信頼を失っています。こんな危険な状況を作ろうとする政党と政権に対して、アンチテーゼをとなえる政党のないのも不幸なことです。<o:p></o:p>

 68回目のこの日、被害者としての視点だけではなく、長い戦時下で日本軍部がとってきた他国の人々への弾圧、悪行という加害者としての認識も必要なことです。いかなる理由を主張しても戦争を誘発することは絶対に許されないことを自覚すること、それがこの日なのだと思っています。

やさしいタイガー 


41度という信じられない異常な暑さ

2013-08-13 18:58:57 | 日記・エッセイ・コラム

 8月のお盆の始まりの週明け、高知県の四万十市は何と41度をさしたという猛烈な暑さに襲われてしまったようです。気象台始まって以来という現象だそうで、市民はさぞうんざりされていることでしょう。この影響でしょうが、熱中症で病院に搬送されて方が4万人を超えているらしく、昨年に比べると、30%も増加しているとか。しかも亡くなった方も50人を超えたようです。<o:p></o:p>

 札幌にいて、それでも暑い暑いと嘆く私たちには、41度という暑さを想像すらできませんが、連日の猛暑は生活のリズムを壊していくことにもなっているようです。奈良や神戸に住む友人からの残暑見舞いもこの暑さで息苦しささえ感じると記してありました。<o:p></o:p>

 冬も夏も毎年異常気象という言葉が通例のような気もしますが、では平穏な気象とはどれを指すのだろうかと思うほどです。この原因は、自然が起こす現象だと片づけてしまうわけにはいかないような気がします。<o:p></o:p>

  自然の恵みに従って生きてきた人類が、あまりにも人工的技術の開発による進化に頼ってきたがための厳しい仕置きを与えられているのではないでしょうかね。わしたちの驕りとでも言ってよいのかもしれません。<o:p></o:p>

  先ごろ土星から見た地球を宇宙衛星から送られてきました。何十億光年というまさに天文学的な距離から見た地球は、ほんの一点でしかありません。<o:p></o:p>

  そこに72億人がひしめくように住んでいるのです。宇宙から見ると、実にちっぽけな衛星の一つでしかありませんが、そこにはいつも不信と争いが絶えず、今では破壊的な武器を開発して、威嚇と脅し、戦争などを仕掛けようという思惑を権力者は抱いているのです。環境を回復しようという世界の協議もうまくいきません。みんな自分さえよかったらという自国中心に考えているからです。

為政者というのは、どうして相手を思う謙虚な姿勢が取れないのか悲しくなります。馬鹿げているとしか言いようがありません。自分たち民族だけは生き残るとでも思っているのか、そんな稚拙な発想が地球を歪めているのです。<o:p></o:p>

  異常気象を嘆くよりは、異常社会に私たちは強いメッセージを送るべきなのかもしれません。

私たちは日ごろ肌で感じるからこそ痛みを分かち合えるのですが、まるで隔離したような環境の完備したなかで生活を営む権力者には通じないのでしょう。人々の痛みを。 

お盆の季節、日本人の多くは先祖の墓参りをして日頃の無沙汰を詫び、天上から生きているものを見守ってほしいと祈る素朴な姿の中に、どんなにつらい季節であっても小さな希望を見出そうという優しが見えてくるものです。それは名もなき人々であるほど、実感していくものかなと思っています。耳をつんざくような蝉の声に暑さを一層感じながら、生きていることをありがたく思います。

どんなに暑くとも私たちは、耐え忍ぶしか方法はないと思ってしまいますが、やがて涼やかな秋風が吹いてくると誰もが信じています。自然は決して私たち人類を悪い方向に向かわせようとはしていません。それは私たちの心がけ次第なのかもしれませんが。

やさしいタイガー