ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

時あたかも

2012-03-31 10:40:32 | 日記・エッセイ・コラム

 やはり春が近いことは間違いないのでしょう。日中は穏やかな暖かさなので、ほっとしているところです。けれどもどんよりと重い雲を観ていると、いったい雪が降るのか、それとも雨か、と出かけの持ち物にも気を使います。

 ぼくはだいたい何かを持って出かけることを以前からあまり好きではなく、要するに手ぶらで外出することが多いのです。では必要なものはどこに、といわれるかもしれませんが、要点を書いたメモや紙を四つ折くらいにまとめ、内ポケットに入れて歩きます。そのほうが忘れたり落としたりしないからです。

 あれこれもつとだんだんと物忘れの確率が高くなりがちです。先日もナップザックに借りた本を返却すべく持ち歩き、その中にカメラも入れてあったのですが、そのカメラが家に帰るとない! そこで自分のたどった道を半数してみると、だいたいのあり場がわかったのです。

 2週間後実際に予想していたところにありました。こうして取り戻せたときはいいのですが、それがさっぱりわからないというときもあり、そんなときはじたばたせず、あきらめるしかありません。あまり執念深くないのかもしれません。

 なんだかこれからの人生、気にすることが増えていくようです。もう悠々と過ごしてもよい年回りになっているのですが、こんなことばかり気にしているようでは、ちっとも楽しいときを過ごせません。

 時あたかも春。うんと手足を伸ばしてわずかな季節を楽しみたいものと念じているのです。不思議に絵の道具だけは持ち歩いていても忘れることはありません。

今日も忘れ物をしないように。

やさしいタイガー 


アマチュアカメラマンとの出会い

2012-03-29 15:43:27 | 日記・エッセイ・コラム

 今日29日は待ちに待った小春日和とでも言えばよいのか、燦々と注ぐ太陽は周りのものさえ暖かくしているような日差しで、元気が出る日和でした。歩いているとほんのりと汗がにじんでくるほどでした。

 そんな中、昨日友人から札幌コンサートホールでの演奏会のチケットをいただいたので、早速ホールに行き、演奏日を決めてきたのでした。無事5月と6月の演奏会のチケットを手にしました。

 その帰り、まだたっぷり積もっている残雪の中島公園の鴨かも川の支流でしょうか、小さな橋の下は、春の小川がさらさらと流れていました。その脇を歩いていたとき、僕より若干年下の女性が重そうなカメラを肩から提げてまるで獲物でも探すようにあちらこちらを眺めているところでした。

 ぼくはその女性に、「いいご趣味ですね」と声をかけたところ、積極的に応答してくださって写真の話を一くさり。今撮ったばかりのコマを見せてくれました。水面から飛び上がろうとする水鳥の姿が実に美しく取れていました。もう一流のカメラマンのような風情です。

 「重そうですね」というと「持ってみますか」と手に持たせてくださり、「およそ10キロはあるでしょう」とのこと。僕などとてもこんな重いもの首から提げていたら、もうぐったりして首が上がらなくなると思ったほどです。

 カメラマンいわく。「子育てをしているときに、だんだん成長する子ども抱え、いろんな荷物も持っていたあのころは、重いともなんとも思わなかったんですが、こうしてモノを持ってみると違う重みがあり、確かに疲れますね」と解説してくださったのです。数分の立ち話でしたが、お互いに名前を交換し合って分かれました。

 またいつ再会する場面があるかわかりませんが、その方、ぼくがよくこの公園に来てスケッチをするのですよ、と話すと、「だからでしょうか。どこかでお目にかかったような気がしていたのです。わたしはそのそばのベンチに座っていて、ちらちら見つめていたのを覚えていますよ」と言われ、驚きました。本当かどうかはわかりませんが、不思議に思いました。

 ちょっとした声がけ、ぼくはときどき悪い感情をもたれない程度に小さなコミュニケーションをするようにしています。もちろん誰かれなくというわけではありません。今日は僕にとってもとても気分のよい時間でした。

 帰りに図書館まで歩いていき、また数冊借りてきました。

やさしいタイガー


希望のささやき

2012-03-29 09:12:32 | 日記・エッセイ・コラム

 季節の変わり目になると、つい口ずさむ曲があります。たぶんどなたもそんな気分になるのではないでしょうか。

 さあ、春がやってくる。といっても札幌はどうやら1ヶ月以上も先で、いまはわずかに長い冬の営みを終えようとしている季節です。でも確かに季節の移ろいを感じさせてくれます。

 自然は本当にありがたい、としみじみ思います。僕はそんな時若い時代によく歌った叙情歌や童謡などが口からついで来るのです。

 たとえば「早春賦」や「花」そして外国曲で「希望のささやき」などです。いいタイトルです。「希望のささやき」。いつごろ出来たのかは調べていないのですが、日本人の津川主一という牧師をしていた作詞家が訳しているのです。じつに美しい詩であり、メロディです。

 今でも多くのコーラスをたしなむ人々の間で歌い継がれています。

 「希望のささやき」という歌詞に目を通すと、ちょうどこの季節、肌刺す風にも、厳冬のときとは違う優しさを感じたり、小川のせせらぎもぬるむようです。冷たい山もだんだんと緑が芽生えて飾っていくのでしょう。

 そんなとき自分の眠っていた心が目覚め、なんだか明日がある、といった気分になります。希望かもしれませんが、それが形になって生まれてくるのではなく、自然のすべての姿によって指し示しているような気になります。まさに「ささやくように」明るくしてくれているのでしょう。

 この曲の冒頭は「あまつ御使いのことばさながら」となっていて、まるで神の使いがあらゆるものに感謝し、いつくしむように、と豊かな自然を与えてくれているのではないか、と思うのです。具体的なものではなく、風や水や光が希望につながっている。それは神のささやきなのだと作詞家は教えてくれているのかもしれません。

 すばらしい曲です。一度お聴きいただくことをお勧めします。

やさしいタイガー


若者の会話

2012-03-27 09:48:42 | 日記・エッセイ・コラム

 今、生徒たちは春休みに入っていて、つかの間の休日を繁華街で過ごしているようです。昨日放送までの空いた時間、安いコーヒーを飲める店に行きました。隣に高校生らしい若者がスパゲティとジュースを飲食しながら長い時間を楽しんでいるようでした。店内は若者で埋め尽くされていました。

 特に聞き耳を立てていたわけではないのですが、断片的に届く話を聴いていると、比較的まじめな話題でした。これからの進学のこと、さらに予備校の話も聞こえてきました。おそらく3年生になり、いよいよ進学の問題で苦闘するのでしょうか。

 やはり話題の中心はクラスメートの女性の話でした。名前はみんな呼び捨てです。「まり子はいるんじゃないか」「あいつはだめだ」などと品定めをしているかのような話です。ぼくらの高校生時代とあまり変わりません。

 異性に目覚め、心の中で悶々とすごしていた自分を思い出し、いつの時代も青年はいいものだと思っていました。この男性二人は、なかなかさわやかな顔をしていてすでに長髪ですから、ちょっぴり大人っぽい雰囲気を持っていました。

 今が華だな、と思いながらもこのところの日本社会は何たる無様な有様よ、と苛立ちを感じます。たくましく育っていく若者の未来への道筋をつけることのできない社会の中枢にいる人たち、もう社会から卒業したらどうか、とさえ思いますね。

 もっとも若者がそんな怒りをこめて話している姿は見たことはありませんが、無関心なのか、まだ幼くて社会への目が開かれないのか、このアンバランスが今の日本の庶民の姿なのかな、と思ったりして一足先に席を立ちました。

やさしいタイガー


一歩前進半歩後退

2012-03-26 10:07:41 | 日記・エッセイ・コラム

 この年になると、寒さがこたえます、と話すのは、北海道生まれ育ちの方に案外多いようです。また長く住んでいると、この寒さにも慣れてくるのかと思うと、どうやらそうではなさそうで、だんだん体にこたえてくるからでしょうか。

 外に出るのも億劫になって、なんだか毎日損をしたような気になっていくようです。それでも暖かくなってきたのかな、と思うと、空は暗転、雪が舞い散ってきて思わせぶりの天候です。

 3月もまもなく終わりというのに、未だに春の気配なし、さびしい限りです。

 もちろんまだまだ普通の靴では外は歩けません。履きつくしてしまうような靴を履いて出かけるので、オシャレもあったものではありません。

 今日の放送は少しでも春を感じていただこうと、日米の桜祭りが始まって100年になるので思い出や逸話を取り上げようと準備したものの、とんと心には「春」という気分になりません。

 それでもそんな気分を吹き飛ばして日米の絆を話す予定です。

 何事も一歩前進すれば半歩後退するものだと思い、過度な期待もせず、まさに自然に任せて日々をすごせばそれで幸せと思うべきなのでしょう。きっと。

やさしいタイガー