「自分と向かい合う」とは どういうことだろう。
われわれ人間は言葉を発明しました。
言葉は他人との相互連絡ばかりでなく、
細かい意思疎通までも可能にしました。
日々の生活は言葉なくしては考えらません。
会話だけでなく思考活動においても、
われわれは言葉をつかわずにそれを進めることはできません。
相手を想定して、
相手のことを考えるときも同様です。
相手の顔を「名前」で思い出し、
相手の行動を「・・していたなあ」と思い出し、
相手の頭のなかを「・・と考えていたのではないか」
と思いめぐらします。
写真や映画のように映像で思い出すものもあるが、
「考えて」いくには 言葉をつかわないと1分ももちません。
そこで質問です。
われわれは、自分のことを考えるときにも、
誰かのことを考えているときと同様に考えて いるのだろうか?
自分のことを考えているとき、
われわれの頭のなかには、
「言葉」と「映像」が入り混じっています。
言葉は必ずしも文章のようなまとまったものではなく、
単語が浮かんだり消えたりします。
映像も同様で過去の記録映画のようなものもあれば、
スナップ写真あるいは未来の映像も混じって、
言葉と同様に浮かんでは消えていきます。
「自分を分析しよう」などと知性的に考えれば、
頭のなかの言葉の占める割合は増大します。
しかし、回想などをしているときには、
言葉は影をひそめ頭のなかには映像が増えてくる。
「次に・・が見たい」などと考えなくても、
次から次へと映像はあらわれてきます。
しかし、自分のことを考えるときは、
言葉がなくても考えることができます。
ところが動物には言葉がありません。
言葉によって知性を手に入れた人間が、
最も動物に戻り感性的になる瞬問です。
それが自分との対話の時問なのかもしれません。
病に伏せて、
きっと自分自身のことを考える時間。
それは自分自身を見直す、
最高の時であったかも知れません。
病に感謝!
われわれ人間は言葉を発明しました。
言葉は他人との相互連絡ばかりでなく、
細かい意思疎通までも可能にしました。
日々の生活は言葉なくしては考えらません。
会話だけでなく思考活動においても、
われわれは言葉をつかわずにそれを進めることはできません。
相手を想定して、
相手のことを考えるときも同様です。
相手の顔を「名前」で思い出し、
相手の行動を「・・していたなあ」と思い出し、
相手の頭のなかを「・・と考えていたのではないか」
と思いめぐらします。
写真や映画のように映像で思い出すものもあるが、
「考えて」いくには 言葉をつかわないと1分ももちません。
そこで質問です。
われわれは、自分のことを考えるときにも、
誰かのことを考えているときと同様に考えて いるのだろうか?
自分のことを考えているとき、
われわれの頭のなかには、
「言葉」と「映像」が入り混じっています。
言葉は必ずしも文章のようなまとまったものではなく、
単語が浮かんだり消えたりします。
映像も同様で過去の記録映画のようなものもあれば、
スナップ写真あるいは未来の映像も混じって、
言葉と同様に浮かんでは消えていきます。
「自分を分析しよう」などと知性的に考えれば、
頭のなかの言葉の占める割合は増大します。
しかし、回想などをしているときには、
言葉は影をひそめ頭のなかには映像が増えてくる。
「次に・・が見たい」などと考えなくても、
次から次へと映像はあらわれてきます。
しかし、自分のことを考えるときは、
言葉がなくても考えることができます。
ところが動物には言葉がありません。
言葉によって知性を手に入れた人間が、
最も動物に戻り感性的になる瞬問です。
それが自分との対話の時問なのかもしれません。
病に伏せて、
きっと自分自身のことを考える時間。
それは自分自身を見直す、
最高の時であったかも知れません。
病に感謝!