経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

3月29日「主にとどまる」

2020-03-29 09:50:10 | 礼拝
聖書:ヨハネの福音書15章1節~17節  

 主イエスは十字架にかかられる前に最後の食事の席で「ぶどうの木と枝」のたとえを弟子たちに話されました。ぶどうはイスラエルの人たちにとってとても馴染みのある食べ物です。ここでは、主イエス・キリストがぶどうの木、父なる神が手入れをする農夫、そして私たち信仰者がぶどうの枝にたとえられています。ぶどうの木は、一本の幹から広く枝を張り、その枝に実を結びます。枝は幹につながって栄養分を吸収し実を結びます。農夫は一本一本のぶどうの木を丁寧に調べて、実を結ばない枝は、他の枝に養分がいくように切り落とします。ぶどうの刈り込みは、ここまで切っていいのかと思うほど大胆だと言われます。しかしそうしてこそ季節になるとたわわな実を結ばせます。2節の「刈り込みをする」と訳されていることばは、3節の「きよい」ということばと同じことばからきています。つまり、弟子たちが「すでにきよい」と言われているのは、みことばによってすでに刈り込みがなされているということです。主のみことばは私たちの心のきよくし、豊かな実を結ぶようにしてくださいます。 

 (4)「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」旧約聖書の時代ではイスラエルがよくぶどうの木やぶどう畑にたとえられています。良いぶどうの木であったはずのイスラエルが、良い実を結ばず、すっぱい実をつけるようになってしまいました。しかし、イエスというまことのぶどうの木にとどまっている枝は、その幹から栄養分をたっぷりと吸い上げて、豊かな実をならせます。主はここで「とどまる」という動詞を繰り返し使っています。「とどまる」と訳されていることばには、「滞在する」という意味があります。他の訳では「つながる」ということばが使われていますが、「とどまる」の方がお互いより密接な関係にあることが伝わってきます。私たちが主にとどまるだけではなく、主も私たちの中にとどまっておられるのです。

   (9)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」私たちはイエス様にとどまるためにはどうしたらよいかと考えますが、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。農夫である神は、枝が伸び放題になれば刈り込みをなさいますし、幹であるイエス様は常に枝に水分や栄養を送り続けてくださいます。自分の努力で良い実を結ぶようにしようとか、幹からたくさん養分を吸収しようと考える必要はありません。イエス様がわたしを愛していてくださるということ、また「友」と呼んでくださるイエス様が自分のためにいのちを捨ててくださったことを感謝をもって受け入れることが「わたしの愛にとどまる」ということです。イエス様から愛を惜しみなくいただいて初めて、互いに愛し合うことができます。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちが主を選んだのではなく、主が私たちを選んでくださいました。それは残る実が結ばれるためです。私たちが離れないようにと主の手にしがみついているのではなく、イエスご自身が愛の手をもって私たちの手をしっかりとつかんでいてくださいます。主はまことのぶどうの木で私たちはその枝です。この一週間、お一人お一人が主にとどまり、それぞれの歩みが主の恵みのなか守られますようにお祈りいたします。
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