goo blog サービス終了のお知らせ 

夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

とっとり花回廊

2014-02-19 23:17:36 | 旅行
土曜日(2/15)の記事には書けなかったが、この日は皆生温泉に行く前に、「とっとり花回廊」を見に行って来た。
午前中は、生徒の入試対策指導(生徒が解いた過去問の添削など)をして、昼食後、米子自動車道で県境を越える。溝口ICで降りて、行くこと10分ほどでフラワーパーク「とっとり花回廊」に着いた。


ここは、総面積50ヘクタールの広大な花の公園で、日本最大規模。中央に直径50m、高さ21mの大型ドーム(温室)があり、その周囲を延長1㎞に及ぶ屋根付き展望回廊が取り囲んでいる。さらに、回廊の東西南北にゆりの館(東館)などの建物があり、敷地内にバラ園、ハーブガーデンなどの大小様々な花の広場・花壇や、レストランなどまである。
この日は雲が多く、向こうに見えるはずの秀峰・大山(だいせん。1,729m)の姿が望めないのが残念。


この中央ドーム内では、現在「らんまつり」を開催中(3/30まで)。18品種、3,200株という洋ランが楽しめる。
コチョウランやカトレアなど、色とりどりの華やかな洋ランが咲き誇っており、美しいとは思うが、私はどうもこういうゴージャスな感じの花はあまり…。
同じドーム内で行われていたパンジー・ビオラ展(2/17終了)の花たちにむしろ心が和んだ。
また、この公園のメインフラワーであるユリは、世界で現在確認されている原種ユリの約半数近くの種類が栽培されており、ゆりの館などで1年を通じて鑑賞することができる。


こうして園内の整備や植物の手入れに労を惜しまない方々がいるからこそ、来園者が美しい庭園を鑑賞できるのだなあと思う。写真では分からないだろうが、このときは、中央ドームの屋根も清掃中(恐い)。


展望回廊に沿って園内を巡回していくのはいい運動にもなり、心楽しい。この回廊は高い所では地上30mにもなり、園内の池や川、滝などの変化に富んだ景観を眺められる。
冬場は花の種類が少ないが、春の桜やチューリップ、バラの時期にはどんなにきれいだろう。大山を望む自然の中で咲き誇る花たちを、次はぜひ見てみたいと思いながら公園を後にした。

出雲大社

2014-02-18 23:42:18 | 旅行

古代出雲歴史博物館で企画展を見た後は、すぐ西隣の出雲大社にお詣り。
今回の参拝は、生徒の合格祈願がメイン。
先週で、センター試験後に出願するタイプの推薦入試の合格発表も終わり、後は国公立大学前期入試に向けて生徒を頑張らせるのみ。
受験する生徒にとっては正念場だが、この時期にもなれば、教員としてしてやれることは、入試の過去問の添削指導と、生徒を励ますことぐらいで、後は神頼みしかない。
昨年5月の「平成の大遷宮」を経て、さらに神威の増した出雲大社なら、きっと生徒と志望大学との縁結びをかなえてくれるはず。


高さ24mもある本殿(国宝)は豪壮な建物で、その大きさに圧倒される。
来週受験する生徒たちの顔を思い浮かべながら、彼らが本番で日頃の学習の成果を存分に発揮し、最後まで頑張りぬけるようにお祈りしてきた。
大遷宮に伴うご修造が整い、清らかに蘇った本殿の威容を見ていると、必ずやご利益にあずかれるような気がしてきた。
この日の午後は気温も上がり、日差しもやわらかで、よい参拝日和となった。

「隠岐之国」展

2014-02-17 23:27:45 | 旅行
美保神社参詣の後は、島根半島をひたすら西へ行き、出雲大社に向かう。
大社の東隣に、古代出雲歴史博物館があり、企画展「神々の国しまね 隠岐之国 島々の歴史と文化」が行われていたので観に行った。


主催者からのあいさつ文に、
隠岐諸島は離島ながらも『隠岐之国』と称され、古代以来一国として扱われてきました。これらの島の歴史は古く、旧石器時代から縄文時代に石器の原材料である黒曜石の供給地であったことは広く知られています。
その後、古代から近世にかけても、その地理的条件から、独特な歴史文化をはぐくんできました。
とあった。
今回の展覧会では、多くの考古資料、古文書、民俗資料を展観しており、原始から現代までの隠岐の歴史と文化を知るまたとない機会となった。


今回、私が強く印象に残ったことを二つ挙げる。
一つ目は、後期旧石器時代に、隠岐諸島と本土が陸続きであった時代があったこと。
約600万年前の火山活動で、隠岐諸島は誕生したのだが、その後地球の寒冷化により海水面が低下したことで、本州と陸続きになった時期があるらしい。

二つ目は、二人の天皇と隠岐の関わり。展覧会の解説では、
承久三年(1221)、承久の乱後に隠岐国へ流された後鳥羽上皇は約20年後に亡くなるが、隠岐に都の文化を伝えた。鎌倉時代末、後醍醐天皇は配流の1年後に隠岐から脱出し、京都で新しい政治を始める(建武の新政)。隠岐では各地で寺が建立されるなど仏教信仰が広がり、現在も優品が多く残されている~
云々というように説明されていた。

『後鳥羽院御百首』(隠岐院遠島百首)の江戸期写本も展示されていた(海士町教育委員会蔵)。
『遠島百首』は、後鳥羽院の隠岐配流後、さほど時日を経ない頃に詠まれた百首歌で、都を追われ離島に流された憂悶の情が随所ににじむ。
春20・夏15・秋20・冬15・雑30首から成るが、展示品は、ちょうど雑(ぞう)のところの頁が開いてあり、有名な、
  我こそは新島守(にひじまもり)よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
の歌を見ることができた。

この企画展は、事前に確認しておらず、出雲大社に着く直前に、博物館の表の看板でそれと気づいた。
後鳥羽院ゆかりの伝統芸能・行事である牛の角突きや、昨年映画『KON-SHIN 渾身』で見た古典相撲などの芸能も大きく取り上げられていた。
この日は、午前中に後鳥羽院のことをずっと考えていたので、予期せぬこの展覧会との出会いには、何か運命のようなものを感じた。

美保関

2014-02-16 23:19:10 | 旅行
朝は再び温泉でくつろいだ後、弓ヶ浜半島を北上し、境港へ。水産物直売センターで実家用にカニを買い求めた後、境水道大橋を渡って美保関(みほのせき)に向かう。ここからは島根県松江市になる。
海岸線に沿って車を走らせると、車窓いっぱいに美保湾の眺めが広がる。
やがて島根半島東南端の美保関灯台に着いた。


承久の乱に敗れた後鳥羽院は、鎌倉武士団に護送され、この辺りから隠岐に渡ったと伝えられる。
承久三年(1221)七月十三日に、隠岐への配流が決まり、二十七日出雲国大浜浦(見尾の崎とも)に着き、順風を待って船出し、八月五日に隠岐国阿摩郡苅田郷(現在の海士町)に到着している。後鳥羽院がこの地から、后の修明門院(順徳院の生母)に送った歌として、
  知るらめや憂き目をみをの浦千鳥泣く泣くしぼる袖のけしきを
という歌が残っている。
昔、この美保関で、帝王から流人へという運命の暗転を、後鳥羽院がどれほどつらく苦しいことと悲嘆したかを思いやった。


太陽を遮る雲の隙間から、光が放射状に空と海に降り注いでいる。こういうのを天使の階段というのだろうか。


後鳥羽院も、ここで航海の安全を祈ったのか、いや、神に北条氏の非道を訴え、都に帰らせてくれと祈っていたのかもしれないと思いつつ、近くにある美保神社に詣でた。
美保関は古来、日本海の交通の要所であったが、その周辺は船の難所であり、海難事故が絶えなかったため、美保神社は海上の守護神として格別の崇敬を集めたのだそうだ。
境内には、漁業に携わる人々が、豊漁と航海の安全を願って奉納した絵馬などが多くあり、この土地の人々の暮らしに今もなお信仰が息づいていることを感じた。

皆生温泉

2014-02-15 22:46:36 | 旅行
今夜は皆生(かいけ)温泉に泊まる。
この温泉郷に来るのは、7年ぶりか。
あのときは確か、その冬一番の寒波が到来し、来る途中で大吹雪になって大変な目に遭ったことを思い出す。
しかも、県境の明知峠を越えようとするとき、車のタイヤのチェーンが片方切れてしまい、その後は下りの坂道で何度もスリップを繰り返しながら、かろうじて峠を下りてきたのである(途中で一度、死を覚悟した)。

今回は、雪こそ降ってはいないが、強風が吹いて、海上は大シケの様相を呈している。…書くのが遅れたが、皆生温泉は海のすぐそばにあり、前回来たときは、激しい波濤の音と、分厚い雪雲から雷鳴が轟く雷おこしの音とが夜通し響き渡り、まるで地の果てにでも来たかのように思った。


今回は前回とは違う旅館に泊まっているが、食事のときの敷き紙に、同じく、詩人・童謡作家である野口雨情の「皆生小唄」の詩が印刷してあるのが心楽しい。

海に湯が湧く伯耆の皆生
波の音さへ寝てて聞く
浜へ出てみりゃただしょんぼりと
隠岐はいとしや波の中
今宵や皆生の温泉泊り
旅の疲れを湯で治す

先ほどお湯にも浸かってきた。
露天風呂で、冬の日本海と、今夜の満月を眺めながら。
皆生温泉は食塩泉で塩分を多く含み、湯冷めしにくく、まだ体がぽかぽかしている。
美味しい食事と、山陰有数の名湯で、しっかり癒されてくることにしよう。