夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

野島断層

2014-03-13 23:18:38 | 旅行
「渦の道」を見た後は、大鳴門橋を通って、対岸の淡路島南にある温泉旅館「うめ丸」へ。
とろりとした湯の感触のうずしお温泉に入り、遠くに大鳴門橋の見える海景色を部屋から眺めながらくつろぎ、瀬戸内の魚介類をふんだんに使った美味しい料理のおもてなしを受け、まるでお殿様のような気分を味わった。
この旅館は特に、鯛料理が自慢だそうで、夕食では丸ごと一尾の鯛が活造り、刺身、アラ煮、また宝楽焼きとして出てきて、皆さん大いに喜んでおられた。


翌日は明石方面に向かうため、淡路島を北上する。
その途次、「たこせんべいの里」に立ち寄り、さらに近くの直販所で島の特産品を買う。私は、蒸し野菜用にタマネギ、サツマイモの「里むすめ」(鳴門金時の最高ブランドだそうで、糖度が高くて美味しかった)、キャベツを買った。

その後、北淡(ほくだん)震災記念公園に行き、野島断層を見てきた。
これは、平成7年の阪神・淡路大震災で現れた野島断層の一部をそのまま屋内保存・展示し、映像や図などで解説を施したもの。断層による様々な地形の変化の様子をわかりやすく見学することができた。


阪神・淡路大震災は、六甲・淡路島断層帯が活動したことにより起き、震源に最も近い野島断層は、北淡町で約10㎞にわたって断層による地面のズレが地表に現れた。断層によって約50㎝~1mの高さで大きく隆起したり、1~2mも横ずれを起こした様子を実際に見ると、マグニチュード7.3、最大震度7を記録し、死者6,434名の犠牲をもたらした自然の脅威をまざまざと感じた。



折しもこの日の新聞で、京大阿武山地震観測所が、大阪平野から淡路島までの地下構造を3次元映像化することに成功したという記事が掲載されていた。そこに書かれていたのだが、100万年間に阪神・淡路大震災クラスの大地震により断層のズレが1~2m生じることを約1,000回も繰り返して六甲山(931m)はできたのだという。


日本列島は4つのプレートの上に存在しており、危険な活断層が多く、また南海トラフ断層のようにいつ大地震が発生してもおかしくないと警戒されている断層もある。東日本大震災の甚大な被害も、まだ収束を見てはいないし、この国に住む限り、地震・津波や火山の噴火といった自然災害には、常に物心双方での備えを怠ってはならないことを思う。

  岩をくだき地さへ引き裂く大地震(おほなゐ)のあと生々し野島断層
  大地震の体験装置1.17の40秒の揺れにただ怖づ

鳴門

2014-03-12 23:13:06 | 旅行
学年旅行に行ってきた。
先日卒業式を終え、国公立大学の後期日程を受験する生徒への指導も終わったこのタイミングで、学年団の教員が、3年間の労をねぎらう旅行に出かけることになったのだ。

岡山から高速道路で瀬戸大橋を渡って高松に行き、屋島に近い牟礼(むれ)町「山田屋」のうどんで昼食。
その後、映画『世界の中心で愛を叫ぶ』の舞台となり、今はカップルのデートスポットとして人気の庵治(あじ)町でロケ地巡り。

夜は淡路島の旅館に泊まるので、再び高速で徳島方面に向かい、大鳴門橋の手前で降りる。
大鳴門橋は、橋桁空間に「渦の道」という遊歩道が設置されており、海上約45mの高さから、瀬戸内海の雄大な景色を見ながら散歩することができる。


有名な鳴門の渦潮も、観潮に適した時間帯はあるが、所々に設けられた畳一枚ほどの大きさのガラス床から眺めることができる。

ワイヤー入りガラスだから、人が乗っても割れて墜落することはないと分かっているのに、やはりその上を歩くときは足がすくみ、それからおずおずと下を覗き込んだ。

この時は残念ながら小さな渦潮しか見られなかったが、大きなものは直径20mにも及ぶという。鳴門海峡の潮の流れの速さを、実際に眼下に見ていると、世界3大潮流の一つに挙げられる、巨大な潮の渦巻くエネルギーを感じた。


観潮船に乗ると、発生地点の間近まで寄って渦潮を眺めることができる。
春秋の大潮の時にはもっとも大きくなるというから、その折にぜひ見てみたい。

  淡路なる鳴門大橋の遊歩道眼下に潮の渦巻くを見る
  名に高き鳴門渦潮眺めをれば瀬戸を流るる潮のはやさよ

水無瀬

2014-02-26 23:23:08 | 旅行
出家した後鳥羽院は、鎌倉幕府の御家人伊東祐時が護送して鳥羽殿を出発し、隠岐へと流されることになる。
罪人を送る作法というので、逆輿(さかごし)といって、進行方向とは逆に輿に乗せられ、運ばれていくときの屈辱は想像するに余りある。
その途次、水無瀬(みなせ)離宮の近くを通り過ぎたとき、後鳥羽院はせめてここにいられたら、と思ったというが、所詮は叶わぬ望みであった。

この水無瀬離宮(水無瀬殿)は、後鳥羽院の近臣・源通親(みちちか)がその別荘を献上して、院の離宮となったものであり、後鳥羽院とその時代を象徴する聖地となり、当時の史料にその名が頻出する。それゆえ、一度行っておかなければと思っていたが、今回ようやく果たせた。


水無瀬は、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる辺りの西岸側に位置し、西海道・南海道の起点となる水陸交通の要衝である。
上の写真は、水無瀬よりやや上流の山崎の辺りから撮ったが(中央は桂川・右手に天王山(270m))、豊かな山河に恵まれた景勝地であり、後鳥羽院が愛したのももっともと思われる。『増鏡』に、
水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひびかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。
云々とあり、後鳥羽院は建仁元年(1201)以降、しばしば水無瀬殿で歌会や遊宴などを催している。


水無瀬離宮の北側を流れる水無瀬川。名前の通り、もともと水量の少ない川だったのだろうが、後鳥羽院は、
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ
                            (新古今集・春上・36)
という歌を詠んでいる。
現在では開発が進んでしまっているものの、やはり水無瀬の里の春の夕景色は、きっと趣深かったのだろうな、と往時を偲んだ。


水無瀬神宮は、かつての離宮跡地と推定されている所にある。後鳥羽院は隠岐で亡くなる直前に、この離宮を管理していた水無瀬信成・親成父子に遺言書(国宝「御手印御置文」。2013/5/21の記事参照)を下し、後生を弔うよう言い置いた。
彼らは、後鳥羽院が鳥羽殿で出家する前に、絵師・歌人の藤原信実に描かせた似絵(にせえ=肖像画)を拝領し、御影(みえい)堂を建てて院の菩提を弔った。
御影堂は以後も朝廷や武家の尊崇を受けて慰霊行事が行われてきたが、明治六年(1873)神社となり、昭和十四年(1939)、後鳥羽天皇700年式年の年に水無瀬神宮と称するようになり、今日に至る。後鳥羽院と共に、その第一皇子で土佐配流となった土御門院、第三皇子で佐渡配流となった順徳院も祀られており、いずれも還京の叶わなかった三上皇のご無念を思い、その魂の慰安を心から祈った。

鳥羽

2014-02-25 22:36:00 | 旅行
伏見稲荷にお詣りした後は、昔、鳥羽離宮のあった辺りへ。
鳥羽は鴨川と桂川の合流点に近く、鳥羽の津(=港)が置かれ、古来、西国の人や物資が都に入る交通の要衝となっていた。
白河上皇が鳥羽離宮(鳥羽殿)を造営して以降は、院政の重要な拠点となり、院の御所や院庁諸機関、近臣の邸宅、寺院などが次々に建てられ、まるで遷都したようだといわれるほどの賑わいを見せる。
鳥羽殿の規模は「百余町」(東西約1.7㎞、南北約1.1㎞)に及ぶ大規模なもので、大きな池を掘り島や築山(秋の山)を築き、四季折々の景観も趣深い離宮であり、地上に極楽浄土を移したものと称えられた。


その鳥羽殿の鎮守社であった城南宮は、今も方除(ほうよけ)の大社として知られる。往時を偲びつつ、御本殿に祈りを捧げてきた。

この鳥羽殿は、後鳥羽院にとって、生涯忘れがたい悲痛事のあった場所である。
承久三年(1221)六月、京都に進撃してきた、十九万ともいわれる鎌倉幕府の大軍の前に、院がたはむなしく破れた。七月六日、後鳥羽院(当時42歳)は京中の院御所から洛南の鳥羽殿に移送され、十日、北条時氏から隠岐への流罪を告げられる。
後鳥羽院は、わが皇子で仁和寺門跡の道助法親王を戒師として出家、その有様を見た者は、武士までも皆、涙を流したという。


城南宮は、社殿の周囲を神苑(楽水圓)と呼ばれる庭園が取り囲んでおり、そちらも拝観してきた(有料)。
城南離宮の庭は、鳥羽殿の風景を建物と石組で表した枯山水の庭園である。



神苑にはまた、「源氏物語花の庭」といって、『源氏物語』に登場する植物100余種が植栽されている。
今は、「しだれ梅と椿まつり」の期間中(3/21まで)だが、梅の盛りにはまだ早かった。


何心もなく咲いている梅の花を見ていると、昔の人もやはりこのようにして、早春の梅の花を愛でていたのだろうか、とつい感慨にふけってしまう。

安楽の浄土をうつす鳥羽の宮の跡ににほへる白梅の花


伏見稲荷

2014-02-24 23:37:29 | 旅行
昨日は、後鳥羽院の足跡をたどる一日旅で京都へ。
今回は洛南エリアが中心だが、その前にまず伏見稲荷大社へお詣り。


門前町を歩いていると、お食事処にやたらと「月見うどん」や「うずらの丸焼き」というお品書きが目に着くが、そういえば、ここ深草のあたりは月と鶉の名所だった。
前者はともかく、うずらの丸焼きはおよそ食欲が湧かない。
私は、深草と聞くと、『伊勢物語』百二十三段を踏まえた藤原俊成の名歌、
  夕されば野辺の秋風身にしみてうづら泣くなり深草の里
                      (千載集・秋上・259)
によって、秋の夕暮に鶉が鳴く物悲しいイメージが、どうしても思い浮かべられてしまう。焼き鳥にするなんて、とんでもない。
もっとも、蜀山人の狂歌に、
  一つとり二つとりては焼いて食ふうづら無くなる深草の里
という俊成の歌のパロディもあったな…。


さて、伏見稲荷大社は和銅四年(711)の創建と伝えられ、全国3万余の稲荷社の総本社。稲荷山の麓の楼門や拝殿、本殿も立派だが、やはり、背後のお山を登り奥の院へと向かう鳥居の参道、通称「千本鳥居」を通らないことには、参詣したことにならないだろう。


実際には一体何本あるのか、林立する鳥居を次々にくぐりながら山中深くに進んで行くと、まるで異界に誘われるような気がする。また、谺ヶ池(こだまがいけ)のほとりにある熊鷹社には、たくさんの和ろうそくが供えられ、
「ホラー映画みたい…」
と感想をもらす参拝客がいた。


上社(一の峰)が山頂になるが、帰りはもと来た道ではなく、裏山の方から竹林の道を抜けて麓まで下りてきた。
冬でも変わらない緑が、目にも鮮やかだ。
先日、大雪が降ったときには、どれだけ雪に映えて美しかったろう。
このブログのタイトルは、
  夢かよふ道さへたえぬくれ竹の伏見の里の雪の下折れ
                (新古今集・冬・673・藤原有家)
という歌から頂いているのだが、この歌は「伏見の里の雪」という題で詠まれている。
「くれ竹の」は、竹の「節」と同音の縁で「伏見」にかかる枕詞であるが、伏見の里に多い竹林をも想起させる。
伏見の里で夜に臥して夢を見ていると、降り積もる雪の重みで竹が折られ、道を塞いで人の通う道が絶えるだけでなく、雪の下折れの音で目が覚めてしまい、夢の通い路も途絶えてしまった…。

京都を歩いていると、自然に文学散歩になっているのが楽しい。