ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

その12

2022年06月03日 | 介護
雹で2階の物干し場と1回の自転車置き場の波板が壊れた。
探した修理業者は月曜日に下見に来ると言う。
私の留守にシルバー人材センターの草むしりの他人が来たのに、母が帰してしまった。
自宅の固定電話がかかってきてすぐに出たのに、母に大きな声で「電話だよ!」「電話だよ!」と呼ばれた。
そのとき私はキッチンに居た。
ほんの数秒で受話器を取ったのに…。
その後、電話のことで母と揉めた。
私は怒ったが、ははも負けずに怒った。
宅急便が来る。
誰かが来る。
数秒で出ないと母に怒られる。
とうとう私は固定電話の前に椅子を置いて座った。
電話の前から1歩も動かないと決め込んだ。
つまらないので途中からテレビを付けたら、母に切るように言われた。
テレビも自由に見れないのだ。
夜遅く主のいなくなった家のキッチンで古くなった食材を調理した。
主人が入院してからと言うもののきちんとした食事をしたことが無い。
外出は制限され、朝から晩まで監視された生活に幸せのかけらもないのだ。
娘を自分の支配下に置きたい母と、反論する娘が居る。
カップ麺を食べた。
固定電話の前に座っているのも嫌なので自室に行く。
電気も付けずに暗がりで階段を上がったら左ひざと頭を強打した。
ごめんなさいとありがとうの言えない母は自室で寝ている。
ゆがんだ性格を持った母は逸脱した考え方を押し付ける。
母の常識は世間の非常識なのだ。
自分で産んだ子供の子育てを間違ったのだ。
そこには本当の親の愛情を知らずに育った母の生い立ちにある。
幼くして姉と実母を亡くした母は一時期親戚の家に預けられた。
父は再婚したが、再婚した相手は父に子供がいることを知らなかった。
20歳の母はいきなり3つの子の親になったのだ。
その後、義母は次から次へと子供を産んだ。
母は小学2年生から家事を強いられ子守りをした。
遊ぶことも許されず、家事と子守りを強いられた母はおそらくそれがもとでゆがんだ性格になったのだろう?
娘の監視をする。
果てはストーカーまがいのこともした。
ことごとく娘のすることややりたいことは反対した。
私はやりたいことも出来ずに行きたいところにも思うように行けずに過ごしている。
やたらと外面だけがいい母です。
人前ではいい顔をする。
他人の前ではいい他人を演じるのだ。
その使い分けは見事としか言いようもない。
(続きはまたあとでね)

その11

2022年06月03日 | 介護
今日は午後から主人が一般病棟に移ると言う。
私は主人の読みそうな本とペットボトルの小さなお茶を2本持参して主人の入院している病院に自転車で行った。
母は自転車は危ないから駅前からバスか家にタクシーを呼んで行ってほしいようだった。
高額な往復のタクシー代は誰が出すのだ?
自転車なら15分で行かれるのにである。
途中で友達の家に寄り愚痴を聞いてもらった。
病院に着くと一般病棟に移るのは14時からだと言う。
私は病院のラウンジで待った。
途中寝不足でうとうとしていたら座っていた椅子から転けた。
あわてて看護師さんが来たが、大丈夫だった。
やっと14時過ぎに車椅子に乗り点滴をいくつも着けた主人が来た。
心なしか主人の顔は浮腫んでいた。
私は一言二言声をかけて別れた。
その足で病院を出て自宅に帰った。
母に主人のことを報告する。
ほどなくしてヒョウが降ってきた。
すごい勢いの大きなヒョウは我が家の2
階の物干し場と1階の自転車置場を直撃した。
浪板が穴だらけになった。
あわてて母にその事を話、直してくれそうな業者に電話をした。
ほどなくして自宅の固定電話に電話が掛かってきた。
母が大きな声で「電話!」「電話!」と叫んだ。
キッチンに居た私はものの数秒で電話に出たのだ。
毎回電話の度に話は大声で私を呼ぶ。
私はその度にあわてて電話に出るのだ。
ベルが3回以上鳴れば偉い目に逢うのだ。
私は母と電話のことで揉めた。
とうとう電話の前に椅子置き私はその椅子に座り動かなかった。
母は隣の部屋でふて寝をしてしまった。
少しの間いびきをかいてふて寝をしていた。
まったく主人の入院とヒョウの被害といい痛い出費です。
電話した業者は月曜日に下見に来るそうです。
(続きはまたあとでね)

その10

2022年06月03日 | 介護
主人が入院してからと言うのも私と母とのいさかいはエスカレートを増していた。
何もやる気の起こらない私に母はあれこれ言ってきた。
部屋を片付けるように。
シルバー人材センターに電話して草むしりの他人を頼むようになどである。
母は私たち夫婦のお宝はすべて処分して欲しいと思っている。
すなわち主人の本の数々やLDやDVDや作らないプラモデルや私の本やレコードやCDや趣味のものや好きな芸能人に関するものなどである。
物を減らす。
すなわち処分する。
片付ける=捨てる。
そこここに点在し散らばったそれらを捨てて物のない暮らしを望んでいる。
その証拠に私は独身の頃に集めていた好きな芸能人の類のものを勝手に私の留守に母に捨てられたのだ。
押し入れに紙袋2つに入れてしまってあったそれらと箪笥の上に置いてあったポスターやカレンダーの類は母の手によつて処分された。
物を捨てる。
こと、母は芸能人には興味はない。
私にとっては芸能人は心のよりどころだった。
母は私が芸能人の追っかけをすることを嫌った。
そのような物にお金を使うことを嫌った。
コンサートに行く。
ライブに行く。
劇場に行く。
キャンペーンに行く。
それらを嫌った。
働いた金は銀行に行くのが正当だと思っていた。
私の使う金は母にとってはすべてムダ金に過ぎないのだ。
そもそもものを買うこと自体がダメなようです。
新しい服を買う。
新しい靴を買う。
新しバックを買う。
それらは母にとっては今までのものをとことん使いこなして着こなして傷んだら買うと、思っている節があります。
母曰く物を大事にするということらしいのです。
流行を追わない。
私が新しい服や靴やバックを買ってくれば決まって文句を言います。
結婚して10年目で母と同居してからと言うもの家電製品は壊れて修理が出来ないと買えません。
新しい家電はなかなか思うように買えません。
洗濯機を買う。
冷蔵庫を買う。
掃除機を買う。
電子レンジを買う。
これらは壊れたことを説明し、買うのです。
果てはキッチンの鍋やフライパンや蒸し器に至るまで新しいのを買えば怒られるのです。
フライパンはとことん使って何かがこびりついて上手く焼けなくなるまで使います。
食器も母に多いと言われて処分したら、今度は食器が無いと言われました。
最低限の食器で生活しています。
そのような暮らしの中でささやかな夫婦での外出さえも文句を言われ、用事が済んだらさっさと帰ってくるように言われるのだ。
(続きはまたあとでね)

その9

2022年06月03日 | 介護
ここに母のことを記しておこうと思う。
母は幼くして姉と実母を亡くした。
後から来た後妻は自分の亭主に子供がいるとは思わなかったのだ。
幼い母は親戚の家に預けられていた。
まだ若かった義母は次から次へと子供を産んだ。
母は小学2年生の頃から家事を強いられた。
背中に妹や弟を背負い、ご飯の支度をし、掃除をして家事をする羽目になったのだ。
なぜなら義母は数年おきに妊娠していたに他ならない。
思うように遊ぶことも許されず、子守りと家事を強いられた母の人生はそこからゆがんだ性格を生み出したのかもしれない?
実母の愛情を知らない。
義母に甘えるすべを知らない。
母は女学校を出ると家を出て働きに行った。
働きに行った母は働いたお金の中から実家に仕送りもしていた。
義母は次から次へと子供を産むので、そのたびに母は実家に呼び戻されたらしい?
母は24歳で父と結婚した。
父は母の実家の向かいの家のお坊ちゃんで末っ子だった。
金持ちの家のぼっちやんだった父は職を転々とした。
父の実家は兄が継いでいた。
4人いた父の兄の一人は戦争で戦死した。
もう一人も何かで亡くなった。
3男の兄が跡を継いだ。
実の父が亡くなると父の姉たちは遺産相続を放棄したので、父も放棄した。
少しでももらっておけばいいものを放棄した。
職を転々とした父は酒とたばことギャンブルが好きだった。
私は父の最終学歴を知らないが、父は何でもよく出来た。
父はなぜ?職を転々としたのか?
おそらく他人に使われることが苦手だったのかもしれない?
私が物心ついたころはうどんや蕎麦の店をやっていた。
わずか3坪の店だった。
その店もあっという間につぶれた。
私が20歳の頃にはラーメン屋を始めたが、その店も客が来ず、1年で閉めた。
両親はいつも喧嘩をしていた。
悪いのは父のことが多いのだが、父は謝罪をしない。
母が悪くなくても母は自分が謝罪して丸く収めるということをしないのだ。
どちらかが謝罪して丸く収めると言う夫婦では無かった。
唯一父は家族サービスと言うものを良くしてくれた。
母は自分の意見を曲げると言うことはしない性格です。
娘の私は常に母に管理された生活を強いられていた。
おそらく母は娘の私を自分好みの娘に育てたかったのだと思うのだ。
常に母に管理された生活は私にとっては苦痛でしか無かった。
どこかで家を出たいと思っていた。
(続きはまたあとでね)