ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

その3

2022年05月31日 | 介護
それは令和4年5月24日の火曜日の夕方だった。
私は近所のコープにお使いに行っていた。
その帰りだった。
私のスマホに病院から電話があった。
電話は主治医からのものだった。
私は慌てて電話んでた。
とっさに先生の話をきちんと聞かなければと思った。
主人の病名は「髄膜種」だった。
27日の金曜日に1回目のカテーテル検査をすると言う。
30日の月曜日に詳しい説明をするので午前10時に病院に来るように言われる。
31日の火曜日に再び主人はカテーテル検査を受けて、6月1日の水曜日には手術をする。
それらの説明を主治医から聞き、スマホを切った。
母からはパソコンの使用禁止を言い渡されているので、主人の病気に関してを調べるのはもっぱらスマホです。
30日の月曜日に主人の兄が車で家まで迎えに来てくれて、入院している総合病院に行った。
少し待たされて義兄と一緒に主治医の話と説明を聞く。
MRIの画像などを見せられ説明を聞く。
話を聞き、質問もし、すべてを納得した上で先生に挨拶して部屋を出た。
そのときは主人も同席していた。
車いすに乗せられた主人は点滴を2本していた。
主人を見た私の顔は泣きそうになったが、グッと我慢をした。
主人は会話は普通に出来た。
だだ車いすに乗せられ、点滴をされた腕は痛々しそうだった。
先生の説明を話を聞き、部屋を出たときに主人がぽっりと私に言った。
「木馬亭に行けなくなってごめんね」
「そんなこといいよ」と、私が言って別れた。
木馬亭で浪曲が聴けなくたって、好きな歌手のシャンソニエに行けなくたって、コンサートやライブに行けなくたって今はいいのだ。
主人の回復が一番なのだ。
その日はそのまま義兄の車で家まで帰った。
帰ってきて母に説明し、私は何もする気が起きなかった。
ただただ主人の手術が無事成功し、退院してくることを願っていた。
次の日も私は朝から母とけんかをしていた。
最早母には一般常識も通用せず、自分の意見と考えを押し通してくるのだ。
何を言っても無駄だし、無理だと思えども、聞き流すすべを知らない私は、ついつい反論をするのだ。
その日は家に居ても母といるのは嫌なので午後から近所の小規模作業所のバザー品の片付けのボランティアに行った。
2時間ほど友達と私を含めて3人で話をしながら片づけた。
次の26日の木曜日も何もする気はなかった。
午後から母に断って駅前のマックでアイスコーヒー飲んで2時間ちょっと帰って来なかったら怒られた。
外出も思うように出来ずに、自由にならない身の上を恨んでもいた。
(続きはまたあとでね)

その2

2022年05月31日 | 介護
病院の深夜の救急外来のロビーで待たされ、その間どれくら時間が過ぎただろう?
おそらく若い当直医に呼ばれてMRIの画像を見せられ、髄膜種の疑いを指摘され、その日のうちに入院になった。
大部屋が空くまで個室になった。
コロナ禍で面会は出来ない。
私はとりあえず帰っていいことになり、バズで駅まで帰る。
涙をこらえていた。
泣きたい気持ちを抑えていた。
駅前でバスを降り、自宅まで歩く。
帰って母にことの重大さを告げるも、怒られた。
心配するより先に怒られた。
今となっては怒られた理由を覚えていない。
母にパソコン禁止と言われているので、夜中にパソコンを自室で開いて眠れずにいた。
次の日の日曜日にあらかたの歯ブラシや日用品や着替えの下着を持って自転車で病院に行った。
コロナ禍で面会は出来ない。
時間外の入り口から入り、正面の通路の先の受付で、持参したものを職員に渡す。
痙攣は収まったのか?
話は出来るのか?
私の心に不安と心配がよぎる。
そのまま病院を後にして自転車で自宅まで帰る。
自宅では母が私が早く帰ってきたことと自転車で行ったことを責めた。
母は駅前からバスで行くべきだと言った。
私は自宅から駅まで徒歩で10分のことを告げ、駅前でバスを待って乗るより、自宅から自転車で行った方が早いことを話した。
母は部屋を片付けるように私に言った。
こんな時に心が落ち着いていないのに、私は母と揉めた。
それでも少し片づけたが、夕方になりやめた。
夕食を作る気も失せ、母と食卓を囲む気も失せ、残り物で母だけ食事をしてもらう。
母と食卓を囲む。
これほど嫌なことは無い。
作ったおかずに文句を言われ、夫婦の会話にも割り込んで来た。
主のいない食卓は楽しくも無かった。
私はすっかり食欲も失せ、母には八つ当たりしていた。
その日も眠れずにいた。
昼間のパソコンの使用を禁じられ、必然的にパソコンは夜中になった。
寝不足の私は少しでも遅く起きると母に怒られた。
次に日に私は市役所と病院に行った。
思いの外早く帰ってきた私に母は驚いていた。
病院では空調設備も整っているので、下着なども要らないと言われ、タオルなどもレンタルで間に合うそうなので、持って行ったものは持ち帰った。
置いてきたのは主人の読みそうな本と主人のガラケーだけだった。
家に帰ってもいつものように母にあれこれ言われ、夕食はコープの出来合いのコロッケと豆腐と納豆とマグロの刺身を買ってきたら、母に刺身は食べないと言われ、刺身は私が食べた。
こんな事態に母の言動は腹が立つばかりだった。
(続きはまたあとでね)

そーっとあなたを抱いてみたい

2022年05月30日 | 介護
それは令和4年の5月21日の土曜日の夕方だった。
私はキッチンに居て夕食の支度をしていた。
ちょうど17時45分ごろ夕食の支度が出来たので、キッチンからパソコンの前に座っている主人を呼んだ。
その日は午前中に主人は駅前のかかりつけ医の診察があった。
私も一緒に行った。
血液検査をして、もともと母親の遺伝因子からの糖尿病と他にもいくつか病気もあるのだ。
この日の血液検査の結果は血糖値が以上に高いのとヘモグロビンの数値が高いことを指摘され、栄養士の指導を受けることになったのだ。
私は自分の父が糖尿病だったので、糖尿病に関しては多少の知識は持っていた。
合併症の怖いことも知っていた。
別室で栄養士さんの指導を受ける。
家でも主人にはいろいろ言ってはきたが、本人は聞く耳を持たなかったので、ほぼ野放し状態だった。
言っても食べる。
糖質のあるものが好きなのだ。
自分の小遣いでも買ってくる。
夕方夕食が出来て声を掛けたが返事が無いので、私はすぐにパソコンの前にいる主人に駆け寄った。
私は慌てた。
パソコンの前の椅子に座っていた主人は仰向けになり、痙攣をおこし、うつろな目でいた。
私が声を掛けても返事も出来なかった。
驚いてびっくりした私はすぐに自宅の固定電話で救急車を呼んだのは言うまでもない。
ところが慌てたのか119番に掛けるつもりがうっかりして110番に欠けてしまった。
はっとして、電話を切り、119番に掛け直し、今の主人の状態を話した。
ほどなくして救急車が来た。
救急隊員が家の中に入り、主人の様子を見て、私にどのようなことでこのようなことが起こったのかと聞いてきた。
その間に主人はタンカーに乗せられ、救急車の中に運ばれた。
私はその間に自分のリュツクと主人のお薬手帳と主人の靴を持って救急車に乗り込んだ。
自宅には認知症の母が居るのだ。
母には事情を説明し、母を残して救急車に乗った。
救急車の中では救急隊員が主人の血糖値を計り、脈拍を計り、その間に別の救急士が私にいくつか質問し、もう一人の救急士が主人の受け入れ先を探していた。
どれくらいの時間だっただろう?
かかりつけ医に断られ、市内の総合病院に行くことになった。
救急車を走らせ、ほどなくして総合病院に着いた。
心配する私に主人の痙攣は収まらなかった。
脳のMRIを撮り、ほどなくして主人は脳梗塞かも知れないと言われ、すぐさま入院したのは言うまでもないのだ。
(続きはまたあとでね)

主人の病院の主治医の説明を聞く

2022年05月30日 | 介護
午前中に主人の兄と総合病院で主治医の説明を聞く。明日の8:40に病院に来るように言われる。明日はカテーテル検査をする。明後日は9:00に来るように言われる。手術をする。脳のMRI等の画像を見せられ説明を受ける。その際車椅子に乗り点滴を2つも射した主人も同席する。髄膜腫は脳にへばりついているので、全部取るのは難しいそうです。他にも副腎に腫瘍があるそうです。これは内分泌内科の先生に診てもらうそうです。甲状腺のホルモンの数値が低めだそうです。主人は普通にしゃべれます。会話は可能です。ただ点滴をしていることと、一人でトイレは難しいそうです。多少の介助が必要だそうです。出された食事は糖尿病等の関係で少なめの味付けも薄めのようですが完食しているようです。自宅にいる時とは違って甘い飲み物も食べ物もアイスも食べられないので、健康的な食生活ですね。自宅では注意しても食べます。しまいに自分の小遣いで買ってきます。介護保険の認定を受けるようにと言われて、一旦家に帰り、お昼ご飯を食べてから行くつもりが、休んだら昼寝をしてしまい、それから市役所の介護保険課に行きました。認定員の他人は6月2日の13:30に総合病院に来ます。その時は私も立ち会います。希望としては普通の生活が出来るように回復することです。少しでも普通に歩ける。散歩が出来る。徐々にバス等に乗れるようになったら市内のシネコン等で主人の好きな映画が観れたら言いなと思います。主人は私に「木馬亭に行けなくなってごめんね」と謝っていましたが、木馬亭は急がなくても毎月やっています。今はきちんと手術をしてリハビリしてきちんと静養して治すことですね。私は時に泣きそうになりながら、先生の話を聞き、主人の顔を見ました。生きる力を信じます。生命力を信じます。木馬亭で浪曲聴けなくたって、好きな歌手のシャンソンが聴けなくたって、主人の回復が一番ですね。

穏やかな暮らしがしてみたい

2022年05月29日 | 介護
主人と結婚して31年と7か月が過ぎました。
結婚して10年目に実母と同居することになりました。
そのころすでに70歳になっていた母は働けなくなっていたのです。
それからほぼ21年経ちました。
私は結婚してほぼ10年母の下を離れて自由を掴んだのもつかの間でした。
再び母の支配下の元暮らすようになるのです。
夫婦の生活はほぼ監視されたような暮らしの中で、思うような夫婦の会話も出来ずに過ごすのです。
外出は行先と帰る時間と用件を告げる。
帰ってきたら帰ってきたで報告をする。
食事は何を食べたか?
何を買ってきたか?
私は子供の頃から芸能人が好きでした。
その芸能人の追っかけはダメなのです。
コンサートやライブや芝居は嘘をついて出掛けてもバレるんです。
そんな矢先に私は母との同居がもとで病気になったのです。
心療内科に行きました。
病気の原因は母にあったのに、数回母は私の病院に着いてきました。
診察室に一緒に入ると母は先生に自分の都合のいいように話します。
その後母には病院に着いてこないように言ったのは言うまでもありません。
今は時々主人と一緒に行きますが、ほぼ一人で行く方が多いんです。
病気はかなり回復したのに、母は私をまだ重病人扱いします。
私が病気になったのに加え、主人もいくつもの病気になりました。
その後母は両手首を骨折し、手術をして、その後不整脈からの洞不全症候群でペースメーカーを埋め込みました。
そして今回の主人の病気です。
さすがに私も二人の介護は無理ですね。