ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

その8

2022年06月02日 | 介護
朝9時からの主人の手術は夜11時15分に終わった。
病院を出て自転車を漕いで、自宅に着いたのは11時30分だった。
母はまだ起きていた。
私のことが心配で寝れなかったと言う。
私の帰りの遅いことを心配したのだ。
主人の手術の話より、私の帰りの遅いことを心配していた。
私はそのことについて母を怒った。
心配するのは主人の手術だろうと怒ったのだ。
64歳の夜道の自転車は危ないと怒った。
1日病院に居て帰って来なかったことを怒られた。
途中で帰ってまた病院に来るということは難しかったのだ。
主治医は次の日に電話をくれると言っていた。
6月2日の木曜日には病院の主治医の先生から電話があった。
今朝は呼吸器も外れたとのこと。
脳からの出血も見られないとのこと。
声の出しづらさはあるようですか、会話は可能とのことでした。
自宅で電話は母がうるさいので、そのまま買い物がてらに家を出て主人の兄の家に行き、昨日の手術の話と今日の主治医の電話の話をして帰る。
この兄と兄夫婦は本当に良い兄夫婦です。
話はきちんとよく聞いてくれます。
アドバイスもくれます。
私は母の愚痴もいい帰ってきました。
夕食を作る気も失せ、コープで弁当を買うも母は食べないと言った。
弁当は一つしか買わなかったので私が食べることになった。
母は残り物のご飯を食べていた。
夕食を食べながらも母は昨日私の帰りが遅かったことを指摘した。
帰るまで心配で寝れなかったと…。
主人の手術の心配よりも娘の帰りの遅いことを心配していた。
この日は主治医からは病院に来なくてもいいと言われた。
昨日の腫瘍は病理検査に出すと言う。
自由に外出も許されず、買い物に行けば買ってきたものに文句を言われ、主人の収入や貯金の額まで聞いてくる始末です。
市内の映画館のシネコンは母には東京に行ったと思うようです。
4時ごろ帰ると言えば「6時だね」と言われます。
出掛ければ帰ってくるまで心配され、出掛ける服装もチェックされ、元気なころの母はストーカーまがいのことまでする始末でした。
途中まであとを付けてくる。
出掛けた場所を詮索する。
夫婦の会話に割り込む。
そこに楽しいことは皆無なのです。
(続きはまたあとでね)

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その7

2022年06月02日 | 介護
いよいよ6月1日水曜日は主人の手術当日になった。
9時から手術が始まると言うので、9時までには病院に行かなければならない。
数日前から母には6月1日は主人の手術が朝の9時からあることを伝えていた。
おまけに紙にも書いて渡していたのに、母は忘れていた。
私は早朝の5時よりキッチンに立ち、残りご飯を卵がゆにして、新しいご飯も炊いた。
菓子パンも用意した。
ところが母には怒られた。
おかゆがあること。
ご飯を炊いたこと。
等怒られた。
おかゆは食べないと言う。
それでも文句を言いながらおかゆを半分食べた。
病院は1日がかりであることは告げてあるのに、母は私が帰ってくるまで心配だと言う。
それ以外にも主人が入院する以前に夫婦で外出していたことを怒られた。
私が通っている心療内科のことも言われた。
先生に言って薬を変えてもらうように言われる始末です。
これから私は主人の入院している病院に行くと言うのにあれこれ言われ反論した。
反論すると母は嘘なきまでして見せた。
母には謝罪と言う言葉は無いのだ。
それでも私は母を残し、自転車に乗って家を出た。
病院に行くと主人はストレッチャーに乗せられていた。
私は主人の顔を見て言葉も出なかった。
私は患者の家族が入るラウンジで主人の手術が終わるのを待った。
病院かは院内専用の携帯を渡されていた。
手術はなかなか終わらなかった。
一抹の不安がよぎらないでもなかった。
ラウンジには入れ代わり立ち代わり人が着た。
患者の家族である。
手術が終わるとストレッチャーで運ばれてきた患者を見て声を掛けて帰るのだ。
手術は最短で6時間半だと聞いていた。
最長で10時間以上はかかるらしい?
私にはただ祈ることしか出来なかった。
朝食と昼食代わりにコンビニの唐揚げ1つと菓子パンしか食べてはいなかった。
ましてや薄着で来たので寒かった。
一旦家に帰れば母に制止されて再び病院に来れないことはわかっていたので、病院にいた。
その後あまりにもお腹が空いたので、看護師さんに断って病院の隣のコンビニでおにぎりを買ってきて食べた。
そもそも主人が入院してからと言うものまともな食事をしていない。
ましてや人生でこんなに長く病院にいたことは無かったのだ。
途中で母には電話を入れ帰りが遅くなる旨を伝えた。
母の一番下の妹にもLINEを入れ、母のことや主人の手術のことも話した。
叔母さんは母に私がまだ帰れないことも電話で話してくれていた。
叔母さんは私がかわいそうだとも…。
夜の11時15分にやっと主人の手術は終わり、主人はストレッチャーで手術室から出てきた。
一目主人の顔を見て、痛々しそうな主人の姿には言葉も出なかった。
主人は呼吸器をしていた。
頭は切開をしたので青いビニールのようなもので覆われていた。
麻酔がまだ切れずにいた。
(続きはまたあとでね)

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その6

2022年06月02日 | 介護
30日の月曜日は主治医からの説明を10時に主人の兄と聞くことになっていた。
義兄が我が家まで迎えに来たので、車で病院に向かった。
先生の説明には主人も同席した。
車いすに乗り、点滴を2つもしていた主人は痛々しかった。
会話は普通に出来るようだった。
私は主人の顔を見たら泣きそうになったが、グッとこらえて先生の話を聞いた。
手術と言うものは納得した上でないと行えない。
MRIの画像を見せてもらいながら説明を聞き、手術をするに当たっての書類などにサインをして、部屋を出た。
その後、主人と別れて義兄の車で自宅まで帰った。
こんな事態なのに、相変わらず母はわけのわからないことを言い、私とけんかになったのは言うまでもない。
その日の私はろくに食事もせず、昼間のパソコンは禁止されていたので、夜遅くパソコンを開いた。
主人のことが心配でろくに寝れずにいた。
31日の火曜日は主人の2回目のカテーテル検査があった。
この日は朝から雨だった。
自宅から駅まで歩いて行き、バスで病院に行くつもりだった。
駅前のバス停には多くの他人が並んでいた。
検査の時間の8時40分には間に合いそうにないので、タクシーに乗って病院に向かった。
病院では手術室やICUなどのある階のラウンジで待たされた。
主人がストレッチャーで来たので顔を見て一言二言話して、私はラウンジでカテーテル検査が終わるのを待った。
6月2日の木曜日に病院に介護認定の他人が来ることになっていたが、手術の次の日で早すぎると言うので、20日に介護認定をする他人が病院に来ることに決まった。
私は相変わらず家では母とけんかをしていた。
理不尽な母は相変わらず自分の理屈を押し付けてきた。
最早自宅には私の居場所などは無く、日々母に監視され管理された生活に限界を感じていた。
すっかり食事を作る気も失せ、家事をする気も失せていた。
相変わらず母はキッチンの洗った食器を布巾で拭くと食器棚のあっちこっちに仕舞う。
食器が同じ場所に置かれたためしが無い。
毎回私が洗って片づけると言うのにである。
連日の気温の上昇をよそにいまだに母は4枚も着ていた。
私が食事を作らなくなったら冷蔵庫の食材も底をついてくるようになった。
私は夜にコープに行き、値引きの品を買い、自分の空腹を満たしていた。
こっそり自室で値引きの品を食べると言う有様であったのは言うまでもない。
いよいよ6月1日の水曜日は主人の手術の日となった。
朝9時までに病院に行く。
(続きはまたあとでね)

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