今日は二十四節気の「白露」。空気が冷えて露の降り初める季節を指す。初夏を迎えたと思っていたら、あっと言う間に今年も半年を過ぎて、早くも初秋の頃となった。
今夏の暑さは東北南部でも異常であったが、6月下旬からは湿度が高くなり、私の体調も些かおかしくなった。気力も著しく衰えて、臥所(ふしど)にいることが多かったのだ。更に偏頭痛に苛(さいな)まれ、寝不足と食欲減退に悩まされる毎日、まあ、年齢相応に体力が衰えて来たことを自覚した次第。
さて、5月下旬から始まった平和安全保障の法改正についての国会審議、7月半ばには衆議院可決を経て参議院審議に回されたが、それも終盤を迎えつつある。紆余曲折はあっても、来週末までには採決が行われるであろう。私は、今回の法改正に賛成の立場であるけれど、約4ヶ月に亘る国会審議を経ても民意の安全保障に対する認識は深まらず、国防への国民の関心の薄さに何とも言えない絶望感を抱かざるを得ない。
国会審議で延々と続く憲法九条と集団的自衛権の議論、あたかも宗教教義と現実問題との関係を論じているように虚しく思えたのである。憲法九条と日米安保条約は補完関係にある。つまり両者はセットなのである。今回の安保関連法改正は、安保条約をより効率的に運用するための手段に過ぎない。
参議院平和安全特別委員会で、宮家邦彦参考人が陳述した内容は大いに参考になると思う。
H27/9/8 参議院平和安全特別委員会・宮家邦彦【参考人意見】
どの国家でも、自然権として自衛権を持つ。他国が攻め込んでくれば、自国の軍隊を以ってこれを跳ね返す権利があるのだ。憲法九条は、この自然権に反する極めて歪んだ法制である。これは、手書きのマッカーサー覚書(1946.2)に基づいてGHQが原案策定、それを我が国に押し付けたものであるが、何故マッカーサーはそのような無理をしたのか?
彼は人並み外れて誇り高い軍人であった。その彼が大東亜戦争初期にフィリピン戦で完膚なきまでに敗れ、這々の態でコレヒドール島から豪州へ屈辱的退散をした。それはマッカーサーの威信を著しく傷つけた。帝国陸海軍が降伏の後、彼は自分を追い詰め蹴散らした軍司令官を処刑し報復した。それだけでは飽き足らず、帝国陸海軍を完全に消滅させ、ハーグ陸戦条約(1899年採択;我が国は1911年に批准)に違反しながら二度と日本に軍事力を持たせないように憲法に盛り込んだ。この自然権に反する行為について、マッカーサーは占領期間が終われば日本はそれを変更するだろうと軽く考えていたのではあるまいか。朝鮮戦争勃発と共に考え方を改めたが、時は既に遅かった。
一方、吉田茂首相(当時)も、旧陸軍に深い怨念を抱いていた。彼は真珠湾開戦以降の戦時中、東条英機首相(当時)に嫌われた。東条の命令で憲兵に付け回され、塗炭の苦しみを味わっている。だから、軍隊を否定する憲法九条をすんなり受け入れたし、マッカーサーが憲法改正をして再軍備するよう求めた時(1950)、これを無視して警察予備隊の設置でお茶を濁した。更に、サンフランシスコ講和条約締結後も、旧日米安保条約で国防を米国に丸投げし、国民投票法の制定を始めとする憲法改正に全く動こうとはしなかったのである。その後警察予備隊は保安隊、自衛隊と名前を変えたが、これは軍隊で無いとして現在に至る。後世、人々は吉田茂が経済復興を第一に考えた(吉田ドクトリン)から再軍備を後回しにしたと解釈するようになった。
このように憲法九条は、国家の持つ自然権の発露を意図的に無視し、日米二人の頑迷な老人指導者が怨念と我執を背景に生み出したものだと私は思っている。
昨今の国際情勢変化を見れば、早く憲法改正を行い、自分の国は自分で守る、つまり第九条第二項を削除して正規国防軍の位置付けを図ることが喫緊の課題と考えるが、憲法改正に熱心な安倍晋三内閣でも、来年(2016)7月の参議院選挙を衆・参同日選挙とし、第九条改訂を主要争点にしてそれを実行することは出来ないであろう。理由は、平和に埋没した国民の国防意識が未だ高まっていないからだ。
私の生きている間には、憲法改正(九条廃棄)は不可能だろうと昨今は思うことがある。余りにも国民が平和に慣れ過ぎ、安全保障体制の充実に関心が薄いのに愕然とする。他国が我が国に攻め込み、ミサイルや爆弾を落された時になって初めて多くの国民は国防軍の必要性を痛感し、憲法改正を真剣に考えるのかも知れぬ。しかし、それでは遅く、間違いなく他国に我が国土は蹂躙され、70年前の夏に満州や樺太で起きたような阿鼻叫喚の状況が再現されるだろう。自衛隊は交戦権を持たないし、ポジティブ・リスト方式では戦いに勝つことは出来ない。日本人が自分で国を守る気概の無いことを知れば、米国も日本を応援するかどうかは疑問だ。
私は自分の人生がもう直ぐ終わると自覚している。仮に戦争が起きても従容(しょうよう)と死に臨む覚悟は出来ている。だが、これからの人生を迎えようとしている若者や幼子、それに生まれてくる子々孫々のためにも、この緑豊かな国土と彼らの命を護り抜く国民的決意が必要と信じる。
戦争を好むものはいないし、可能な限り抑止されねばならない。戦争を忌避するあまり、自国軍隊の存在を否定したり、交戦権を放棄すれば、逆に戦争を招くことは必定。現実を見据えて国防力を充実し、それを背景にして外交を展開することが有力な戦争抑止に繋がるのであるが、今なお国民の半数以上はその認識が無いのである。
今夏の暑さは東北南部でも異常であったが、6月下旬からは湿度が高くなり、私の体調も些かおかしくなった。気力も著しく衰えて、臥所(ふしど)にいることが多かったのだ。更に偏頭痛に苛(さいな)まれ、寝不足と食欲減退に悩まされる毎日、まあ、年齢相応に体力が衰えて来たことを自覚した次第。
さて、5月下旬から始まった平和安全保障の法改正についての国会審議、7月半ばには衆議院可決を経て参議院審議に回されたが、それも終盤を迎えつつある。紆余曲折はあっても、来週末までには採決が行われるであろう。私は、今回の法改正に賛成の立場であるけれど、約4ヶ月に亘る国会審議を経ても民意の安全保障に対する認識は深まらず、国防への国民の関心の薄さに何とも言えない絶望感を抱かざるを得ない。
国会審議で延々と続く憲法九条と集団的自衛権の議論、あたかも宗教教義と現実問題との関係を論じているように虚しく思えたのである。憲法九条と日米安保条約は補完関係にある。つまり両者はセットなのである。今回の安保関連法改正は、安保条約をより効率的に運用するための手段に過ぎない。
参議院平和安全特別委員会で、宮家邦彦参考人が陳述した内容は大いに参考になると思う。
H27/9/8 参議院平和安全特別委員会・宮家邦彦【参考人意見】
どの国家でも、自然権として自衛権を持つ。他国が攻め込んでくれば、自国の軍隊を以ってこれを跳ね返す権利があるのだ。憲法九条は、この自然権に反する極めて歪んだ法制である。これは、手書きのマッカーサー覚書(1946.2)に基づいてGHQが原案策定、それを我が国に押し付けたものであるが、何故マッカーサーはそのような無理をしたのか?
彼は人並み外れて誇り高い軍人であった。その彼が大東亜戦争初期にフィリピン戦で完膚なきまでに敗れ、這々の態でコレヒドール島から豪州へ屈辱的退散をした。それはマッカーサーの威信を著しく傷つけた。帝国陸海軍が降伏の後、彼は自分を追い詰め蹴散らした軍司令官を処刑し報復した。それだけでは飽き足らず、帝国陸海軍を完全に消滅させ、ハーグ陸戦条約(1899年採択;我が国は1911年に批准)に違反しながら二度と日本に軍事力を持たせないように憲法に盛り込んだ。この自然権に反する行為について、マッカーサーは占領期間が終われば日本はそれを変更するだろうと軽く考えていたのではあるまいか。朝鮮戦争勃発と共に考え方を改めたが、時は既に遅かった。
一方、吉田茂首相(当時)も、旧陸軍に深い怨念を抱いていた。彼は真珠湾開戦以降の戦時中、東条英機首相(当時)に嫌われた。東条の命令で憲兵に付け回され、塗炭の苦しみを味わっている。だから、軍隊を否定する憲法九条をすんなり受け入れたし、マッカーサーが憲法改正をして再軍備するよう求めた時(1950)、これを無視して警察予備隊の設置でお茶を濁した。更に、サンフランシスコ講和条約締結後も、旧日米安保条約で国防を米国に丸投げし、国民投票法の制定を始めとする憲法改正に全く動こうとはしなかったのである。その後警察予備隊は保安隊、自衛隊と名前を変えたが、これは軍隊で無いとして現在に至る。後世、人々は吉田茂が経済復興を第一に考えた(吉田ドクトリン)から再軍備を後回しにしたと解釈するようになった。
このように憲法九条は、国家の持つ自然権の発露を意図的に無視し、日米二人の頑迷な老人指導者が怨念と我執を背景に生み出したものだと私は思っている。
昨今の国際情勢変化を見れば、早く憲法改正を行い、自分の国は自分で守る、つまり第九条第二項を削除して正規国防軍の位置付けを図ることが喫緊の課題と考えるが、憲法改正に熱心な安倍晋三内閣でも、来年(2016)7月の参議院選挙を衆・参同日選挙とし、第九条改訂を主要争点にしてそれを実行することは出来ないであろう。理由は、平和に埋没した国民の国防意識が未だ高まっていないからだ。
私の生きている間には、憲法改正(九条廃棄)は不可能だろうと昨今は思うことがある。余りにも国民が平和に慣れ過ぎ、安全保障体制の充実に関心が薄いのに愕然とする。他国が我が国に攻め込み、ミサイルや爆弾を落された時になって初めて多くの国民は国防軍の必要性を痛感し、憲法改正を真剣に考えるのかも知れぬ。しかし、それでは遅く、間違いなく他国に我が国土は蹂躙され、70年前の夏に満州や樺太で起きたような阿鼻叫喚の状況が再現されるだろう。自衛隊は交戦権を持たないし、ポジティブ・リスト方式では戦いに勝つことは出来ない。日本人が自分で国を守る気概の無いことを知れば、米国も日本を応援するかどうかは疑問だ。
私は自分の人生がもう直ぐ終わると自覚している。仮に戦争が起きても従容(しょうよう)と死に臨む覚悟は出来ている。だが、これからの人生を迎えようとしている若者や幼子、それに生まれてくる子々孫々のためにも、この緑豊かな国土と彼らの命を護り抜く国民的決意が必要と信じる。
戦争を好むものはいないし、可能な限り抑止されねばならない。戦争を忌避するあまり、自国軍隊の存在を否定したり、交戦権を放棄すれば、逆に戦争を招くことは必定。現実を見据えて国防力を充実し、それを背景にして外交を展開することが有力な戦争抑止に繋がるのであるが、今なお国民の半数以上はその認識が無いのである。
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