今もなお中共へ投資を煽る日本経済新聞(人民日報と提携中)は、7月20日の朝刊で一石を投じる報道を行った。故富田朝彦元宮内庁長官が、先帝陛下の御発言を記述したとされるいわゆる「富田メモ」の公開だ。日経はその真贋を充分に吟味しないで、恣意的ともとれる発表をしたものだから、大きな議論を呼んでいる。
普段は皇室に何ら敬意を払わないマスコミが、鬼の首を取ったように、「ほら、昭和天皇だってA級戦犯合祀を嫌っているぞ」と言うのだから呆れてしまう。天皇発言を政治問題化しようとする意図がありありと読み取れる。既にこの世には居られない人々の言葉を弄び、英霊の鎮まる場所にケチをつけるような存在には、何れ近い内に天罰が下るであろう。
このメモ問題では、まとめサイトも出来ている。
「いわゆる富田メモに対する疑惑まとめサイト」
「天皇A級戦犯発言報道に関する簡易まとめサイト」
また、中山善照氏の御意見は、大いに傾聴に値する。
中山善照氏の御意見
あちこちのブログに「富田メモ」の内容が示されているから、再掲はしない。ところで、このメモの所有権や版権は富田家が保有しているのだろうか。これほどの社会問題になっているのだから、富田家は日経から手帖とメモを取り戻して、完全な第三者による筆跡鑑定、紙質、糊、インクなどの物理化学的精査をやってその結果を公表してはどうか。それで始めて第一級史料となる。
日経新聞は、このメモ発見が編集局社会部某記者のスクープであるとして、平成18年度新聞協会賞を申請した。客観性に欠け、疑念の伴う内容であるのに、何故そんなに急ぐのか。同じ頃に自社社員が醜悪なインサイダー取引で逮捕されているが、それを考えれば情報企業として自粛すべきでないか。
私がメモをnetで読んだ時、内容は別として、こんな卑俗あるいは軽い表現を陛下が為さるのかなとまず疑問を覚えた。陛下のお人柄に似つかわしく無い言葉遣いだからである。私は「昭和天皇独白録」(文芸春秋社刊)にも、同じような疑問を持つ部分が何ケ所かある。
先帝陛下は、御下問の際も、臣下への言葉を大切にされた方である。それは幼少の頃から立憲君主国の帝王教育を受けられ、敗戦に至る迄は大元帥として、戦後は国家の象徴としての矜持に由来するのであろう。
戦前、国家に思いを馳せ、身を焦がすようにして努力する大臣や将軍達を、陛下は<股肱の臣>として大切に思われておられた。2・26事件で、重臣暗殺を報告奏上された時の御発言にそれが垣間見える。戦後はA級戦犯(と言われる人達)に対しても、大変なお気遣いであったとも聞く。
日独伊三国同盟締結に関しては、対米戦の切掛けになったと陛下は御考えだったようで、それを推進した松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、大島浩駐独大使(陸軍中将)に批判のお心はあったと想像する。だが、それと関係させて「冨田メモ」のような形で陛下が靖國御親拝に触れられるとは考え難いのだ。
戦前、勅任と信頼を受けた年長の大臣達は、年若くあらせられた陛下と言葉を交わすだけでも畏怖心に近いものを持っていた。それで思い出すのは、田中義一首相への叱責である。
昭和3年(1928)6月4日、張作霖爆殺事件、すなわち満州某重大事件が起きた時、田中義一首相(当時65才)は徹底した調査及び関係者の処分を行いますと陛下(当時御歳27才)へ上奏した。だが、当時の陸軍上層部は捜査に非協力で、容疑者とされた関東軍の河本大作大佐への厳罰処分に強く反対した。
1年を経過して、報告の為参内した田中首相は関東軍が爆殺に無関係と御説明を申し上げた。陛下は「それでは、前と話が違ふではないか。辞表を出してはどうか」と叱責され、退出された。田中首相は恐懼に堪えず、御信任が得られないと自覚し、総辞職せざるを得なかった。その後1ヵ月して田中は傷心のまま逝去する。
傍若無人の<おらが総理>、田中首相をして震え上がらせるのだから、驚いてしまう。
ともあれ「富田メモ」については、只今の所元駐タイ大使・岡崎久彦氏が【正論】で述べられた見解に近い気持を私は持っている。
岡崎久彦氏の見解
普段は皇室に何ら敬意を払わないマスコミが、鬼の首を取ったように、「ほら、昭和天皇だってA級戦犯合祀を嫌っているぞ」と言うのだから呆れてしまう。天皇発言を政治問題化しようとする意図がありありと読み取れる。既にこの世には居られない人々の言葉を弄び、英霊の鎮まる場所にケチをつけるような存在には、何れ近い内に天罰が下るであろう。
このメモ問題では、まとめサイトも出来ている。
「いわゆる富田メモに対する疑惑まとめサイト」
「天皇A級戦犯発言報道に関する簡易まとめサイト」
また、中山善照氏の御意見は、大いに傾聴に値する。
中山善照氏の御意見
あちこちのブログに「富田メモ」の内容が示されているから、再掲はしない。ところで、このメモの所有権や版権は富田家が保有しているのだろうか。これほどの社会問題になっているのだから、富田家は日経から手帖とメモを取り戻して、完全な第三者による筆跡鑑定、紙質、糊、インクなどの物理化学的精査をやってその結果を公表してはどうか。それで始めて第一級史料となる。
日経新聞は、このメモ発見が編集局社会部某記者のスクープであるとして、平成18年度新聞協会賞を申請した。客観性に欠け、疑念の伴う内容であるのに、何故そんなに急ぐのか。同じ頃に自社社員が醜悪なインサイダー取引で逮捕されているが、それを考えれば情報企業として自粛すべきでないか。
私がメモをnetで読んだ時、内容は別として、こんな卑俗あるいは軽い表現を陛下が為さるのかなとまず疑問を覚えた。陛下のお人柄に似つかわしく無い言葉遣いだからである。私は「昭和天皇独白録」(文芸春秋社刊)にも、同じような疑問を持つ部分が何ケ所かある。
先帝陛下は、御下問の際も、臣下への言葉を大切にされた方である。それは幼少の頃から立憲君主国の帝王教育を受けられ、敗戦に至る迄は大元帥として、戦後は国家の象徴としての矜持に由来するのであろう。
戦前、国家に思いを馳せ、身を焦がすようにして努力する大臣や将軍達を、陛下は<股肱の臣>として大切に思われておられた。2・26事件で、重臣暗殺を報告奏上された時の御発言にそれが垣間見える。戦後はA級戦犯(と言われる人達)に対しても、大変なお気遣いであったとも聞く。
日独伊三国同盟締結に関しては、対米戦の切掛けになったと陛下は御考えだったようで、それを推進した松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、大島浩駐独大使(陸軍中将)に批判のお心はあったと想像する。だが、それと関係させて「冨田メモ」のような形で陛下が靖國御親拝に触れられるとは考え難いのだ。
戦前、勅任と信頼を受けた年長の大臣達は、年若くあらせられた陛下と言葉を交わすだけでも畏怖心に近いものを持っていた。それで思い出すのは、田中義一首相への叱責である。
昭和3年(1928)6月4日、張作霖爆殺事件、すなわち満州某重大事件が起きた時、田中義一首相(当時65才)は徹底した調査及び関係者の処分を行いますと陛下(当時御歳27才)へ上奏した。だが、当時の陸軍上層部は捜査に非協力で、容疑者とされた関東軍の河本大作大佐への厳罰処分に強く反対した。
1年を経過して、報告の為参内した田中首相は関東軍が爆殺に無関係と御説明を申し上げた。陛下は「それでは、前と話が違ふではないか。辞表を出してはどうか」と叱責され、退出された。田中首相は恐懼に堪えず、御信任が得られないと自覚し、総辞職せざるを得なかった。その後1ヵ月して田中は傷心のまま逝去する。
傍若無人の<おらが総理>、田中首相をして震え上がらせるのだから、驚いてしまう。
ともあれ「富田メモ」については、只今の所元駐タイ大使・岡崎久彦氏が【正論】で述べられた見解に近い気持を私は持っている。
岡崎久彦氏の見解
コメントを有難うございます。
先帝陛下が最後に御親拝されたのは昭和50年11月21日です。この年、8月15日に三木首相の参拝があり、私的であると言ってのけた。11月20日の参院内閣委員会で社会党がしつこく天皇の御親拝は公的か私的かと質問、政府は返答に困って私的と言ってしまった。
陛下は、翌日予定通りの御親拝をされたが、以後は控えられた。その理由を想像しますと、
(1)御親拝は公的も私的も区別が無いのに、私的と言われても困る。
(2)御自分の行動によって、国民の意見が分かれるのを苦慮された。
御親拝は2ー3年おきに行われていましたから、翌年はそれが無くても不思議では無い。三木首相参拝の後(昭和51年以降)、公的・私的との問いかけが益々五月蝿くなり、そうした状況を見ておられた陛下は混乱を避けられたのではないでしょうか。