2月16日、今日は南区残りの寺を弘明寺まで歩いてきました。
自宅~元町~大通り公園~京急黄金町へ、ここから京急線に沿って・・
9:30 太田橋(ここを渡ると)京急黄金町駅
大岡川沿いのはこれからです
9:45 5番:東光山 蓮花院
幼稚園が併設され、園児の元気な声が聞こえています
後光❣?❣ いや、太陽の演出です
「御砂」らしき跡が
*
10:00~15分 寄り寺しました。
西中山 常照寺(日蓮宗)仁王門です
本 堂
山門・仁王門・本堂(裏山へ登ると)鐘付堂 日蓮上人銅像
地元では「鬼子母神」と親しまれているようです。
日蓮上人像
「平戸・桜木道路」を西へ、横浜商業高校(通称Y校)前にある
10:20 6番:松吟山 大光寺
延宝7年(1679)に大本山高野山桜池院から山号院号を付与されたとされます。
当寺の黒門は、旧金沢六浦藩米倉侯陣屋の辰己南門を移築したものだといわれ、
東福寺の「赤門」に対して、「黒門」と呼ばれたと云われています。
(南区の歴史より)
落ち着いた雰囲気のお寺です、樹木も手入れされています
松、山茶花、金木犀、石楠花、躑躅、公孫樹と
環状1号を横断し弘明寺方面へ
10:45 番外:西向山 乗連寺
源頼家・実朝の菩提を弔うために、北条政子が開基となり創建、
照淸法印が開山したといいます。
慶安2年(1649)江戸幕府より寺領石升の御朱印状を拝領していた。
尼将軍、北条政子ゆかりの寺です
白 梅
11:00 33番:瑞應山 弘明寺
弘明寺は、善無畏三蔵法師が養老5年(721)に開創、聖武天皇の勅命により
天平9年行基菩薩が観音像を安置して伽藍を造営したといいます。
鎌倉時代には源家累代の祈願所となっていた他、小田原北条氏よりも崇敬を受け、
江戸時代には慶安2年(1649)寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。
本尊の木造十一面観音立像は国重要文化財に指定されている。
身代わり不動尊、丁重に「願」をかけてきました
枝垂梅と青空
紅 梅
11:30 弘明寺公園で昼食
展望台
展望台から ↓ ↑
富士山、丹沢山塊は雪が降ったようです。
弘明寺商店街へ出て、「藤方豆腐店=横浜そごうにも出店」
カマボココンニャクとガンモを購入、帰途にと思いましたが
時間があるので磯子七福神で歩いた二寺へ寄りました。
⇒30番:妙法山 弘誓院と31番:青龍山 室生寺(記録は次回へ)
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先日歩いた 手引札所:穐葉山 萬徳寺(曹洞宗)
野毛七福神:弘法大師・・・・末席は何故か山岳修験者の役行者(えんのぎょうじゃ)
隣は 成田山新勝寺の横浜別院です
>>>>空海その4
「空海」が「空気」になった・・・・・
日本各地の真言宗の寺には必ず「大師像や大師堂」があるが、
弘法大師その人への信仰は、どちらかといえば、希薄な場合が多いように思う。
たとえば京都の東寺、毎月二十一日の「弘法市」が多くの買い物客を引き付ける。
空海の住まいだった御影堂は、空海の入定後、その供養の場として使われるようになった。
大師信仰はこの御影堂においても、僧侶のものから次第に近隣民衆のものへと
発展していったとされる。
毎朝行われる「生身供」と呼ばれる、勤業の様子から窺い知ることができる。
~中略~ 途中、「南無大師遍照金剛」のご宝号も唱えられるが、この勤行は、
弘法大師への帰依というよりは、おそらく信心深い善男善女の熱心な先祖供養の
延長線上にあり、彼らが生活圏のなかで確保している大事な祈りの場ではないだろうか?
【空海:高村薫著より】