現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

売れる児童文学の本について

2019-01-19 10:29:35 | 考察
 売れる児童文学の本とは何か?
 一般文学とは違って、児童文学には作者と読者の間に「媒介者」と呼ばれる存在があるので、「売れる本の条件」は少し複雑です。
 媒介者とは、子どもたちに代わって、本を購入したり、本を選んだりして、読書を勧める人たちのことで一般的には大人です。
 主な媒介者には、両親をはじめとする家族、学校の教師、図書館の司書、子ども文庫活動をしている人たち、読書運動の活動家、読み聞かせのボランティア、書店員などがいます。
 これらの媒介者の手を経て、子どもたちが本を手にすることが多いのです。
 売れる本のタイプの一番目は、もちろん子ども自身が選択して本を購入する場合ですが、現在ではコミックスだけでなく、ゲーム、アニメ、ケータイなどの他のエンターテインメント分野と競合して、子どもたちの少ないこずかいからお金を払うわけですから、それに見合うだけ楽しめるものでなくてはなりません。
 このジャンルは、一般にエンターテインメント作品と呼ばれますが、少し上の年齢層向けとしては、ジュニアノベル(女の子向けが中心)、ライトノベル(男の子向けが中心)と呼ばれる作品群が、文庫や新書の形で毎月大量に出版されています。
 これらには、たくさんのレーベルがありますが、最近は小学生向けのレーベルも増えて低年齢層の取り込みを図っています。
 これらの作品群は、ストーリーや文章よりもカバーイラストやキャラクターが重視されていて、その点でも戦前の少年倶楽部の少年小説や吉屋信子などの少女小説の正統な末裔と言えるでしょう。
 次に媒介者が本を選ぶ場合ですが、これらは媒介者自身の読書体験やいろいろなブックリスト(毎年選ばれている読書感想文コンクールの課題図書もここに含まれます)をもとに選択されています。
 そのため、子どもたちが読んで面白いかどうかももちろん大切ですが、教育的な配慮が重視されることが多いと思われます(課題図書の場合は、読書感想文の書きやすさもポイントになるでしょう)。
 このジャンルでは、世界や日本の児童文学の古典的な名作、戦争や障碍者などの社会的な問題を扱った作品の人気が根強いです。
 かつて労働運動や社会運動が活発だった時代には、社会主義リアリズムの作品群もこのジャンルとして人気があり、初期のそれらの作品の出版の背景になりましたが、運動の衰退とともに人気を失いました。
 この分野では識字教育とも結びついていて、現在では高学年向けの作品は低調で、幼年向け(小学校三年生ぐらいまで)が中心になっています。
 最後に、子どもたちと媒介者の間での妥協によって選ばれる作品群があります。
 このジャンルの代表的な作品群としては、媒介者が比較的良心的と認めるエンターテインメント作品(例えば、ズッコケシリーズやゾロリシリーズなど)、偉人やスポーツ選手などの伝記、ノンフィクション、ハウツー物などがあげられます。
 また、児童文学の媒介者と読者は、ともに圧倒的に女性が多いので、媒介者がかつて読んだ(あるいは一緒にこれから読みたい)女性向け(対象年齢は問わない)の作品も選ばれることが多いです。

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尾崎 翠「瑠璃玉の指輪」第七官界彷徨・瑠璃玉の指輪他四篇所収

2019-01-19 10:25:23 | 参考文献
 純文学から一転して、非常に通俗的な内容を持った映画の脚本です。
 不倫、児童売買、アヘン窟、女探偵、異常性欲、男装、同性愛(当時のモラルとしては扇情的な素材だったと思われます)など、江戸川乱歩風のかなりどぎついエンターテインメントです。
 尾崎のような文学少女の作品にも、当時の娯楽の王者だった映画の影響は色濃く表れています。
 この脚本は、映画原作の公募に参加したもので、残念ながら映画化はなりませんでした。
 もし、この脚本が採用されていたら、早々に筆を折った尾崎の文筆活動も違ったものになったかもしれません。
 もちろん、その方が幸せだったとは限りませんが。

第七官界彷徨・琉璃玉の耳輪 他四篇 (岩波文庫)
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岩波書店
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大塚英志「とりあえず「盗作」してみよう」物語の体操所収

2019-01-19 10:24:15 | 参考文献
 作者は、長々と「盗作」の正当性を自分の体験も含めて語っていますが、これらは厳密に言うと「盗作」ではなく「二次創作」でしょう。
 実際に同じ文章を引用の断りなく使うのでなければ、「盗作」に問われることはないはずです。
 「盗作疑惑」では、小説の世界では倉橋由美子などが有名ですが、児童文学の世界でも、庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」にはサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」との多くの類似点が指摘されていますし、後藤竜二の「天使で大地はいっぱいだ」も「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の文体を模倣しています。
 また、斉藤惇夫の「冒険者たち」がトールキンの「ホビット」の影響下に書かれたことは有名ですし、キャラクター設定にはマージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズの反映が感じられます。
 誤解を招かないように断っておきますが、私はこれらの作家なり作品なりを批判しているのではありません。
 むしろ作者のいうところの「盗作」は、小説の世界では常識なのです。
 神話や昔話なら真似しても良くて、現代小説はダメだなどということはありません。
 「小説を読む」という行為も体験の一部なのですから、そこからの影響から逃れることはできません。
 作者自身が現実の描写ではなく漫画の世界を描写することを「漫画的リアリズム」と呼んでいますが、小説でも同様なことは行われていて「小説的リアリズム」で書かれた作品はたくさんあります。
 それが、作者が「小説的リアリズム」と呼ばずに「盗作」と呼ぶのには違和感を持ちました(もちろんキャッチーなタイトルにしたかっただけなのかもしれませんけれど)。
 倉橋も述べていますが、そっくりに模倣しようとしても必ず自分自身が投影されて別のものになってしまうのです。
 それがオリジナリティというものです。
 もし別物にならなかったら、おそらくその人には書くべき何かが全くなかったのでしょう。
 私自身も、十代のころは、そのころ好きだったアラン・シリトーの文体や設定を借りて創作したことがありましたが、出来上がった作品は全く別物でした。
 40年代のイギリス労働者階級の少年と、60年代の東京の下町育ちの少年とでは、まったく違う世界が見えていたのです。

物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)
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