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教育に期待(してもいいのか)




わたしも親の端くれなので、こんなことを考えなければならない日がやって来た。

「学校にどういう教育を期待しますか」

学校関係の密室インタビューで答えなければならないのである。


こういうことを考えるのは比較的好きな方なのでいろいろ考えてみた。
車を運転しながら、料理しながら、犬を散歩させながら。


わたしの考えでは、まず、学校では知識や技術よりも、知性を身につけて欲しい。
うむ、分かりにくいな。

説明しよう。

娘のクラスメイトのお母様がこう言った(以前にも書いた)。
「この学校、コンピューターのクラスでMacを使っているのよ。でも世界の主流はウインドウズでしょ?だから将来役に立つように、ウインドウズを使っている学校に行かせたいのよ。」

わたしはほとんど20年前、当時50万円だったMacのラップトップを手にしてから一途を貫き通しているので、ウインドウズの使い勝手のようなことはよく...いや全く分からない。
が、娘たちが社会に出る時、ウインドウズが世界の主流でなくなっているとか、今とは機械がすっかり変わってしまっている可能性はある、ということは分かる。
だからわたしが子どもに身につけて欲しいのは、ウインドウズを操る技術ではなく、どんなタイプのマシンを使うことになったとしても、対処することのできる能力の方だ。

このコンピューターの話は例にすぎないが、つまり、技術よりも、自分が解決方法を知らない問題に直面した時にこそ解決方法を探し出せる、という能力を身につけて欲しいのである。

思えば、英雄簟を下敷きにした人気映画や童話には繰り返しこのネタが出てくる。
おそらく、「今まで解いたこともない問題に直面した時に解決法を繰り出す」能力は、人類存続の歴史の中で重要だったのだろう。


先生方に同調してもらえるかどうかは分からないけれど(それは現場で調整)、「将来役に立つ技術」というものを身につけさせようとする教育方法にはわたしはあまり関心がないのである。
ほら、日本で新たに始まった英語教育の方法とか...


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世界を意味で埋め尽くす




村上隆展目的で美女とともにベルサイユへ。

冷たい朝の、人もまばらなシャンゼリゼでコーヒーを飲んでからパリマラソンが始まる前に車で脱出。所要時間20分。


彼女の提案がなければ、実際の展示を見ることもなく駄弁(ベルサイユ宮殿と村上隆)を繰り出すだけだったろう。

そして日本人の彼女と一緒と訪れたのが特によかった...と思ったのは、村上作品には日本人には自明な要素が多く含まれているためだ。同伴者は日本人をおすすめする。


わたしたちが一番「いい」と思ったのはとんがりくん。
残念だったのは一部展示方法のまずさ。



写真は後日(カメラを娘に託したため、わたしはカメラなし。友人の撮影したのを待っている。今頃成田に着いたかな...)




10月18日追記
Mさんiphone撮影のとんがりくん。
「ベルサイユで」「この条件下で」実物を見る価値があると思う。





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観光写真




西ヨーロッパ、晴天なり。

わたしが友人と買い物へいったり、宴会にお邪魔したり、ヴェルサイユに行ったりして週末を過ごしている間、夫と娘は普段しないこと、つまり、エッフェル塔に上る、セーヌ川を船で下る、ブラジルから来た知人家族に串揚げを初体験させるなどして楽しんだそうだ。

以下、娘の撮影。







「おもしろいと思ったものや、きれいなものの写真をとってね」
(意外なものを撮ってくるかも、ワクワク)と託したのに、ごく普通の観光写真ばかりだった。


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厄年




厄年などの民間信仰は、そのストーリーの中で生きている人にだけ有効である。


厄年だけでなく、占い、オカルト、スピリチャル系などの疑似科学、そして宗教などもそのストーリの中で生きている人にだけ有効な知恵を授けてくれるのであり、例えば「今日の蠍座の運勢」「大○界」「オーラ○ーマ」「ユ○ヤ陰謀説」などとといったものは、そのストーリーの外の住人には意味をなさない。

もちろん、そういうものにまるっきり根拠がないと思っているわけではない。


人間は生まれ、再生産し、死ぬ。
幼児期、思春期、出産の年齢、身体にガタが来る年齢、老い、その間に病気をし、肉親を亡くし、そして最終的に死を迎える年齢は、どの人種や環境でもだいたい決まっていて、誰もそれを免れることができない。

だからこの年齢になったら無茶をしない方がいいとか、こういう時期は慎んだ方がいいなどという指針はあってもおかしくないと思う。
同様に、個人個人が守らなければ共同体が崩壊するような最低限のマナーもあるだろうから、例えば墓石は綺麗に(しなければ障りがあると言って脅す)などといった人類の知恵的目安、というのもあると思う。


風水について考えてみる。風水にしたって、わざわざ風水という名前を付けてシステム化しなくても結構常識的なことを言っている。
水回りは清潔にしておかなければ災いの元になるとか(水回りが不潔だと病を招く可能性があるのは今でも常識だ)、わが家はT字路の突き当たりにあり、風水ではそういう地形を嫌うらしいが、それは昔、中国に騎馬の敵が攻めて来る場合、通りの突き当たりにある家というのは動線的に破壊されやすかった、という経験則に根拠がある。


そういえば神戸には「拝みやさん」という風俗があった。
わたしの実家はそういうお商売の人とは全く縁はなかったが、30年以上も前の心療内科やカウンセリングなどの発達していない時代、新興住宅地の外国帰りの奥さんが、隠れて「拝みやさん」へ行った、とうウワサ話を聴いたことがある。
大人になってから拝みやさんのアドヴァイスの方法を知ったとき、うまいこと言いはるなあ、と感心したものだ。「毎朝5時に玄関を掃除して花を飾るのを30日続けなさい」とか「毎日仏壇に線香をあげてからお姑さんの話を黙って聞いてあげなさい」とか、そんな合理的な内容。



閑話休題。

わたし自身は、実家にいる時から「厄年」とは無縁だったために(こういう知恵は家で授かるものだ)、正確な厄年の年齢を知らないし、気にもならない。
正直に言えば、単なるバーナム効果だと思っている。     

でも、ふと思ったのは、「厄年」というのは、人を戒めるばかりでなく、決して楽ばかりではない人生に一筋の光をあてる効果もあるのかも、ということだ。

例えばある人の人生に連続して不幸が起こったとして、それが厄年に当たるならば「厄年だから」と諦観することができ、それでも自棄にならず、「この年が明けたらきっと好転するに違いない」と思わせることができる、つまり「春の来ない冬はない」や「夜明けの来ない夜はない」などと同じことを言っているような気がする。

人間、時に、「春の来ない冬はない」と言ってもらえることほど心強いことはないのである。


というわけで、わたしは厄年や占いなどということは無縁で生きているが、人類の知恵はそれがシステム化して人間を搾取しない限り(ビジネスにしない限り)、敬愛したいものだなと、そういうことが言いたかったのです。


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白い空








紙のように白い冬の空。

誕生日に宝石を贈られても、クリスマスの飾り付けをしても、新年を言祝いでも、暖炉の側で友人と夜通し爆笑しても、

冬はこの空にやられるんですな。


年末の休暇はドイツの黒い森でペイガニズム的クリスマスを迎える、というアイデアに夫は舞い上がっているが、わたしは自分が生還できるか心配である(笑)。
わたしは南下したい。どこへでもよいから太陽の照る土地へ南下したい。


今年こそは人工太陽ライトを買うか。
人工ライトを浴びる自分...何やら余計にやられそうな情けない絵柄である。


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