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satori, project polunin




バレエ界の若きスター、セルゲイ・ポルーニンのポルーニンによるポルーニンのためのパフォーマンスをポルーニンが...


演目は
First Solo
Scriabiniana
Satori


全体的に古い。古すぎる。
前回、今年の春のポルーニン・プロジェクトもそうだったが、なぜこの若きアーティストのセンスは壊滅的に古いんだろう?
もったいなさすぎて泣きたくなるほどだ。

Scriabinianaはソ連時代の作品で、もろに「ソビエト」。
もちろんそれが直接作品の良し悪しに関係するわけではない。しかし「ソビエト時代の芸術作品」は、その時代背景から切り離されてしまうと一気に古くさくなる。ちょっとした改良が必要なのだと思う。
ポルーニンはなぜにソビエト時代の作品がそこまで好むのだろう...わたしにはよく分からない。
スクリャービンの音楽はいいと思うけど。


Satoriには「悟り」と日本語表記がついている。
まずタイトルのセンスからして古い。古くささでこちらが赤面してしまうほどだ。
彼が圧倒的な技術と表現力を誇るパワフルで美しいダンサーである(であった)ことは喜んで認めるが。「悟り」。ロンドンの、日本人が近寄らないような寿司屋の店名か、80年代の西海岸発の自己啓発本のようなタイトル。
つまり、なんとなくカッコいい、お手軽な、借り物の「悟り」でしかないのである。ポルーニンよ、あなたのエンライトメントはそんなに安いものなのか? と問いたくなる。

ああ、誰か彼のセンスの古さを教えてやればいいのに...
教えなくても金になるからそれでいいのだろうか。もしそうなら本当にもったいないことである。彼は(ちょっとは)権威から自由になったと思っているかもしれないが、頭のいい大人に未だに搾取されているわけだ。


タイトルは素人のくせに言いたい放題のモエがつけるケチだと処理しよう。
大切なのはもちろん内容である。

最初のFirst Soloからして、彼は自分語りが大好きなのだな...と思う。
わたしゃ人に言えた義理じゃないけど。

あれだけの才能とカリスマ性がありながら、かつ、注目を浴びながら、なぜあれほど必死に自己肯定し続けなければならないのか、世界に彼の何を理解して欲しいと願っているのか、わたしにはさっぱり理解できない。
あるいは何かに対して言い訳をしているのだろうか。

今や、ナタリア・オシポヴァというすばらしきパートナーを得て(彼女は天才ダンサーであるだけでなく、性格もいいにちがいない)、世界中の、彼にとってはどうでもいいわたしのようなオーディエンスに、何を理解して欲しいのだろうか。

きっと、彼の育ちや権威との衝突などからそれを説明することもできるのだろう。おそらく天才には天才の苦悩があるのだろうとしか言えない。


内容は、彼の子ども時代、「両親」と特に母親との関係、彼の「純粋なる良心」との関係(良心を演じるのがパートナーのナタリア・オシポヴァなのである。彼が彼女との関係をどのように捉えているかが分かる。彼は彼女を愛しているのだ!)、つまり彼の半生を語って聞かされる。

最後に彼は彼の「良心」と完全な一体化をしたのだろうか
それとも彼は「良心」を捨て去って自由になったのか(というのは、もちろん日本語の「悟り」は善悪の境を捨て自由になることだからだ)
それらは同じことなのだろうか?
ちょっとその辺りが分かりにくかった。
どちらでもいいのかもしれないけれど、ぜひ聞いてみたい質問。

彼は何を悟ったのだろう?
悟ることができれば楽になれるのに、という彼の願望だろうか
それとも何かを「悟った」と感じ、自由になったと感じ、そのセレブレーションなのだろうか。の割には...
「旧弊」な権威は彼を理解することはない、という「悟り」か。それなら一番いいんだけど。


批判するのはたやすい。
彼は、溢れる才能とカリスマに見合った作品を探す旅の途中なのである。
そんな旅に出られる若い芸術家は決して多くないと思う。

青い鳥は自分の家の中にいるとアドバイスするのもたやすい。
とにかく、応援はし続けたい。


(写真はSergei Polunin in Satori. Photograph: Tristram Kenton for the Guardian)
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