goo

薔薇コレクション





わたしにはずっとコレクション癖はない、と思っていた。

切手は小学生の時に卒業したし、ポーセリンをガラスケースに飾ることもしていない。

耽美的な服は実用品として扱っているので「コレクション」ではない。
「蒐集物とは、物が元々の機能を剥奪され、主体に関係づけられた物のことをいう」(Jean Baudrillard, The Cultures of Collecting)からだ。


昨日、「コレクションしている紙製品」を捨てられない話をしたが、問屋で買ったパラフィン紙でできている袋やライスペーパー、一筆箋、上質のカードなどの紙製品を、いつかは使うつもりで「取っておいてある」のは、正確には「コレクション」ではなく、「ブリコラージュ」(<いつか何かに使えるだろうと寄せ集めて取っておくこと)だと思っている。

他にも、
リボンや、美しい箱などの寄せ集めも、わたしの「ブリコラージュ」に入れられるだろう。

美術の写真本
フォルナセッティの飾り皿
カメオ

この中では飾り皿は確実にコレクションだ。皿としての機能は剥奪され、壁に飾ってある(そもそもそのように作ってある)から...


ところで、この新型コロナウイルス禍で、もともとなんとなく植生させていた薔薇を積極的に世話する悦楽に目覚め(夫が。わたしは鑑賞係)てしまった。

そのあまりの美しさに、花が枯れてからも捨てられず、どうにか保管したいという欲望が湧き、ついにドライフラワーにすることにした...
単なる薔薇モチーフ好きとは違う。
ドライフラワーにして、そしてどうするかなどどうでもいい。とにかく時間を止めでもして、この美しさを留めて残したい...そんな「コレクション癖」がついに目覚めたかも。



以下、「コレクション」とは何かについて、以前訳した The Cultures of Collectingから...

「実用的な物(例えば機械)には社会的な価値がある。逆に機能を剥奪され、特定の文脈に結びつかない純然たる物は主体的な価値を帯びる。と、それはコレクションされる宿命になる。その結果、物は『カーペット』であることを止め、『テーブル』であることを止め、『羅針盤』であることを止め、『こまごましたもの』であることを止め、『オブジェ』『ピース』に転ずるのだ」

「ひとたび物がその機能によって定義されることを止めると、物の存在意義は完全に主体側のものになる」

コレクションとは、物が本来備えている実用的な使い方をされず、主体側(例えばわたしや博物館)の都合によって、別の意味体系の中に組み込まれた状態であることを言う。こうして集められた物は別のシステムを形成する。このシステムこそが「コレクション」だ。

「こうして物はひとつのシステムをつくる。それを基礎として、主体は彼の世界を継ぎ合わせ、小宇宙を作り上げるのだ」


つくづく、ものというものはそれ自体で存在するわけではなく、関係性の結び目として存在する由が分かって面白い。

わたしは薔薇の小宇宙を作るのだ(笑)。



John Elsner, with Roger Cardinal, The Cultures of Collecting, Harvard University Press, 1994. 訳はモエ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 夜中のパン屋... イングランド... »