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オランダ東インド会社の船がゆく




こんな小さい木造の船でオランダからインドネシアへ行ったのか...

しかも行きだけで1年はかかったという...

わたしなんか、このレプリカの船の内部を見学しているだけで船酔いがする(笑)。


莫大な富をもたらす「東インド貿易の独占」を目指し、オランダ東インド会社は1602年に設立された。

上の写真のアムステルダム号(アムステルダム海洋博物館に停留されているレプリカ)は、18世紀にバタヴィア(現インドネシア、ジャカルタ。オランダ東インド会社のヘッドクオーターがあった)への処女航海を開始したが、わずか3週間足らずでイギリス海峡の嵐で難破した。

難破船は1960年代に英国南海岸のヘイスティングス近くで発見され、干潮時には今も時々見えるそうだ。
見に行きたい。ヘイスティングスはうちから車で2時間ほど...




片道で1年もかかり、難破する確率は非常に高い。

しかしそれでもポルトガル、スペインの「成功」に続いて、オランダが船を出したのは、

資本主義の自己増殖、貿易の利益追求、植民地拡大
知識欲、冒険欲
名声、名誉
布教など宗教的な理由
貧民や罪人の追放

などの理由があるだろう。

実際、アジアとの貿易はオランダに空前の繁栄をもたらした。
(とはいえ、オランダの貿易相手として最も重要だったのは、バルト海地方からの穀物輸入だった。穀物はオランダ船によってヨーロッパ各地に輸送された。ヨーロッパとアジアとの距離は遠く、往復の航海で数年かかったため、オランダ東インド会社の貿易はアジア内での割合の方が高かった)

特に中国との貿易は重要であり、生糸、絹織物や陶磁器などの商品を、胡椒や香辛料を使って取引したという。

胡椒、香辛料? それってヨーロッパのものじゃないよね?

そうなのだ、当時のヨーロッパとアジア間の貿易においては、ヨーロッパはアジアに売るものはほとんどたいしたものを持っていなかったのである(わずか全体の5%)。
オランダは、アジアで買い付けたものをアジアで売ることによって富を獲得した。

それにもかかわらず、オランダが世界の覇権を握ったのはなぜか。




先に結論を言うと、当時のアジアが欲しがるものをほとんど持たなかったヨーロッパが、アジア、そして全世界に輸出し、今もまだ「世界のスタンダード」として扱われているものを輸出した。

それは、「一種のプラットフォームであり、多くの人々がその形式に従って生活しなければならない枠組み」(玉木俊明著『手数料と物流の経済全史』から引用)である。

「経済力・商業力との関係」(同上)に下支えされ、みんながその上でゲームに参加しなければならないゲームボード。

商習慣はもちろんのこと、わたしたちの思考の中に「あたりまえ」としてあらかじめインストールされている基準、たとえば法律や、生活様式や、美の基準にいたるまで、である。

海運力と腕力を使って、オランダはヨーロッパの基準を世界に輸出したのである。



ウィリアム一世の王の船


その成果の背景には:

15世紀のブルージュ、16世紀のアントワープの下地的な繁栄がある。

今でこそオランダやベルギーは北西ヨーロッパの小国だが、15世紀から17世紀にかけてはヨーロッパいち豊かな地域だった。
ちなみにわたしは、昔、栄華を誇り、今は廃れてだいぶ経つ、という街が大好きだ。

その後、覇権はイギリス、のちにアメリカに移って久しいため、ちょっと想像がしにくいが、そうだったのだ。

ブルージュ、アントワープ、アムステルダムの街に共通しているのは、運河があり、海が近い交易都市、ということだろうか。

もともと、この地域は低地で、農作物の生産にはそれほど適してはおらず、早くから船を使った「海運業」「交易業」や「加工業」を発達させていた。



とても天気がよく、博物館近くの運河の一角はプールになっていた。泳ぐにはまだ水は冷たかろう...


17世紀のオランダはプロテスタントのカルヴァン派の国家で、宗教的寛容があり、さまざまな出身地、宗教・宗派の商人が移住してきていた。
宗教・宗派を超えた商人の間で取引が可能になってていたのである。
「さまざまな地域の商人の出身地の商業ノウハウ、ネットワークは、アムステルダムの重要な資産」となった。


「活版印刷術の発展は、宗教改革をもたらしただけではなく」、「同質性の高い商業情報が共有される社会が形成され、経済成長が促進され」た。
アムステルダムでは印刷業が繁盛し、出版も盛んだった。
つまり、商業に関しても、同じ印刷物やノウハウ本を多くの人が読むことによって、商習慣の同一ルールができ、コストも下がり、誰でも商業に参加しやすくなったのである。


振替銀行を設立し、資金がアムステルダムを経由した(手数料とは、黙っていても儲かるものなのだ)。
この銀行で北ヨーロッパの取引の多くが決済されたので、オランダには自動的に資金が流入する。

これらに支えられた「ヨーロッパを起源とする同質性のある商業空間がアジアにまで拡大」し、「世界がヨーロッパの商業慣行を受容することを可能にした」のである。

つまり「世界はヨーロッパ化」していったのである。


(「」内はすべて『手数料と物流の経済全史』から引用)



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