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本籍地

2016-03-15 08:49:42 | 日記
私は生まれてから六十年余、本籍地は山口県・防府(ほうふ)市でした。

防府には、血縁関係は誰も居ません。
物心ついた時には、誰も居ない本籍地だけがあったのです。
亡くなった母が何故、誰も血縁者の居ない本籍を移さなかったのか?
今となっては分り様もありませんが、
母は「父親が毛利さん、毛利さんとよく言ってた。」
みたいな事を何度か言ってました。
防府は、毛利元就だか毛利輝元だかの支配地ですね。
そういえば、毛利家の家来に私と同じ苗字の武将が居るのです。
私の先祖はひょっとしたら、その武将なんだろうかね~?
私は、母が亡くなった後も、本籍地の移転をしませんでした。
それが可能な事は知っていましたが、しませんでした。

母が存命中も、戸籍謄本が必要な時とかは、
防府市役所と郵便のやり取りですので、時間がかかって不便ではありました。
ですが、戸籍謄本が必要な時というのは、それほど多くないので、そのままにしていました。
母が誰も居ない本籍を移さなかったという事に、何かこだわりを感じていたので、
それを移すという事を私はしませんでした。

当時住んでいた横浜では高層の8階という事もありました。
いわゆる(地べた)ではなかったからです。
ですが、本籍というのは(番地)だけの事であって、
それが地べたか高層かという問題ではないのですけどね。

そういった事が分かっていながら、本籍はそのまま。
それを移すと、何だか今までの自分の人生の分身が無くなる様な気がしたのです。

防府には一度だけ母と一緒に行った事があります。
最初であり、最後でもありました。
それは父親の眠る墓所でした。
○○家・先祖代々という立派な墓がありました。
そこから新しく買った小田原の墓地へと、分骨をして頂いたのです。
横浜から山口県ではあまりにも遠すぎます。
墓参りなど出来る筈はありません。
なので、小田原の地に分骨をしたのです。

それは今から30数年前の事でした。
かなり高齢だったお寺の住職さんが、
分骨を終えて横浜への帰途に着く私達を、
いつまでもいつまでも見送ってくれた姿は忘れられないシーンでした。

その住職さんはもう生きてはいませんし、
私の家の墓石がその後どうなったのかは・・分かりません。


私の友人にYという男が居ます。
親友の周平が46歳で急逝した時に、大泣きに泣き崩れた男です。
そいつが、「俺、寅さんの映画は全部観てる」と、ある時言ったのです。
その事は、私にはチョッとした衝撃でした。
私の中では寅さんなんて、そんなのがあるのは知ってるよ位の映画でしかなかったからです。
そのひと言を聞いてからというもの、私は寅さんの映画をよく観る様になりました。
「あいつが、そこまで惚れる寅さんって一体何者なんだ?」

若い頃、彼は寅さん好きが高じて、ある日、葛飾柴又のアパートを借り、
そこに数か月間住んでいました。
そこで彼がやった事。
それは本籍をそのアパートに移したのです。
なので、彼の運転免許証には、
(本籍・東京都葛飾区柴又・・)として燦然として輝いているのです。

「性は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅とはっします」

・・追伸(お~っとっと、性じゃないよな、姓だったよな。
な~んせ、頭ん中はそれっきゃ無いからな、俺は)

彼はスナックなどで飲んで酔っ払うと、
その免許証を店中の客に、見せて回るという趣味がありました。
そんなモン見せつけられるお客さんも・・みんな結構、大笑いしてたけどね。
それこそが、彼のある種の生きがいでもあった様な・・・
彼は千葉で写真屋をしながら、
最近は福島の原発被災地を回って写真を撮り続けています。
元々、感性のいい奴だったので、写真も上手かったね。

それで、本籍なんですけど、
彼がいとも簡単に本籍を移したという事は、
私には「エッ、そんな重要な事を、そんなに気安くやっちゃっていいの?」
だったんですが、
考えてみると、そんな重要な事というのは、
生まれてこの方住所が変わらない、とかいった人から見ればそうかも知れませんが、
私みたいに根無し草みたいな人間にとっては、
それがど~した。くらいの価値でしかない気がします。

それで、エリカさんとつがいになってから、
本籍地をとうとう、東京都府中市に移してしまいました。

他の人から「それがど~した」って言われれば、
いえね、別にね、ど~って事なんか全然ないんですけどね、ってそんな気はします。

だめ?
こんな事ブログに書くべき事じゃない?





コメント
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