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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

ロッジ・アコールデに行って来ました

2015-02-02 06:33:43 | 旅行
ロッジ・アコールデは長野県、戸隠にあります。
以前から一度は行ってみたいという思いを持っていました。
と言うのは・・・



以前・・所属していた新ハイキングという大きなハイキングクラブがあり、
そこでは「新ハイキング」という雑誌を出版していました。
その中に(せせらぎ)という短文の投稿欄があり、そこに私の文章がよく掲載されていました。
2008年11月号にも私の文章が載っていました。
「昨年・2007年より歌声喫茶にはまってしまい、新ハイキングの山行が犠牲になりつつある、
それはとてもマズイ事ではあるけど最高に楽しい」という内容でした。





それに対しての応答が、ロッジ・アコールデからあったのです。
2009年3月号でした。
「歌声喫茶にはまってしまい、新ハイ山行が犠牲になってお悩みの赤川泰山(河童)さん。
実は私も青春時代に歌声喫茶にはまってしまい、毎週の様に歌声喫茶に通っていました。
山に入ればテントの中で夜中まで唄っていました。
登山と歌声の両方を楽しむには自分で山小屋を開くのが一番と思い、
戸隠高原にロッジを開業してしまいました。
山と歌声の両立にお悩みの赤川さん、戸隠にお出でになれば両立がいっぺんに楽しめます」
という内容でした。

それをずっと気にしつつ何となくの歳月が流れ、
その間に私は「新ハイキング」を退会してしまったり、キャンプにはまってしまったりでした。
先日、パソコン作業をしている時に長時間のダウンロード作業があり、
時間を持て余した私は何気に昔の「新ハイキング」を本箱から出して読んでいたんですが、
それで、以前のやり取りを再確認したのです。
気がつくと週末の歌声予定は何も無い、その場でロッジ・アコールデに電話を入れました。
「土曜日に車で行きますからよろしく~!」
前後の見境ない速攻にエリカさんはビックリしていました。
「エ~ッ、いきなり週末に行くの~???」

でもね、車であの豪雪の戸隠に行くにはノーマルタイヤでは行ける筈はない。
幸いつい最近に樹脂製のチェーンは買ってあったのです。
でも、ノーマルタイヤにチェーンだけでは何とも心もとないんですね。
おまけに私の車は雪には最も弱い後輪駆動車(クラウン・ステーションワゴン)
ネット検索で家からごく近いショップでレンタル・スタッドレスタイヤがある事がわかり予約しました。

さて当日、戸隠に着いたもののナビはある程度までしか案内してくれず、
豪雪の中でチェーンを巻いたりしながら(泣きたくなった)
迷いに迷ってやっとの事でロッジに無事到着。
ナビって最後の最後までナビしてくれるからナビなんじゃないの~??



でも、ロッジ・オーナーの糸賀さんの笑顔を見たら、そんな苦労はいっぺんに吹っ飛んでしまったのです。
だってね、あの糸賀さんの笑顔ったらないんです。
あんな素敵な笑顔を見た事なんて・・本当にいつだったんだろう?
というくらい素敵だったんです。
男として、人間として、あんな素敵な笑顔を持っているなんて、
それはどんなにか素晴らしい事なんでしょう。
その瞬間、私は「ここには絶対にまた来るぞ」と思いました。
まだ到着したばかりだったんですけど、今度また絶対に私たちはここには来るぞって思ってしまったんです。





泊り客は私たちを入れて9名でした。
風呂は雪見をしながらエリカさんと家族風呂。いい湯でした。
夜になると待望の歌声喫茶。
糸賀さんのアコーディオンに乗って唄いまくりましたね~。
私たちの様な(歌声喫茶プロ・・アハハ)は他には居なかったのですが、
どんな状況であっても、歌声喫茶ってヤッパいいな~っと思いましたね。

歌声二次会は6名で深夜まで及びましたが、
それがまた実に良かった。
遠路はるばる戸隠まで来て良かった~っという二次会だったんです。

翌日は皆さんスキーをする為に戸隠まで来ているんですから、勿論スキーに出かけ、
私たちだけが、スキーとは何の関係もない居残り。
とは言っても車は出さねばならず(そこが最も心配だった、出れるかな~?)
でも除雪車での作業もあって、無事駐車場から出す事が出来ました。

帰りの車内ではエリカさんと、
いきなりの戸隠だったけど、糸賀さんの笑顔にまた会いたいな~、
俺たち、また絶対来るなって話し合っていたんですね。

コメント (2)
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初めて津波被災地に行った時

2015-01-03 18:51:53 | 旅行
2011年6月。
私は初めて東北大震災の被災地に行き、その現状を目の当たりにしました。

仙台の歌声喫茶バラライカに行き、翌日に石巻へと行ったのです。
私は、石巻に用事のあるМ氏と、K女史と3人だけで石巻に行きました。

松島のチョッと先からは鉄道が寸断されていてバスでしか行く事ができませんでした。
そして到着した石巻駅。
我々3人は駅から歩きつつ昼食をする店は無いかと見渡しましたが、
どうもそんな雰囲気は何処にも無く、仕方なく駅前に引き返しました。
そして駅前の居酒屋チェーン店で昼食をしました。
店員さんに「津波の被災地を見に来ました」の一言が不謹慎で私は言えずにためらっていましたが、
М氏が堂々とありのままの質問をしてくれました。
(後々知ったのですが、彼等被災者たちは、被災地見物を不謹慎などとは思っていなく、
むしろ自分たちの現実を皆に見て欲しい、知って欲しいと思っているんですね。
ですから、逆に被災地見学ツアーバスなどがあっても良かったんじゃないのでしょうか?)

店員さんの教えてくれた丘とはどうも間違った道を行ったらしく、
私たちは向こう側に見える丘へと歩き直して行きました。
そこが、日和山(ひよりやま)公園でした。
その丘の頂上にある神社から、向こうに見える太平洋側の光景を見た時の衝撃、
それは一生涯忘れられないものでした。







無いのです!
何が?
そこにあった筈の街並みが根こそぎ無くなっているのです。
まるで、ノッペラボウになっていたんです。
あまりの光景に息を呑み、ただ呆然として打ち眺めるばかりでした。
そこに生活をし、喜び悲しみ、幾多の人生をしていた人々が、どれほど命を落としていったのでしょう?

親戚の墓参りに行くというМ氏と、一緒に行くというK女史と別れた私は、
一人丘を下りて津波の現場へと足を踏み入れて行きました。
津波火災に焼き払われた小学校。
交通事故でもこれほどまでには壊れないという、ただの鉄の塊になってしまった自動車。
車が走れる最低限の道路の他は、まるで泥濘地と化して、その物凄い匂い。
その泥沼の中にはまだきっと行方不明者の遺体もあるやも知れず、
私は涙が流れて仕方ありませんでした。

そこにあった筈の美容院と経営者夫妻の写真が掲げてあり、今だ行方不明の表示に、
私は思わず手を合わせ「可哀想に、可哀想に」と祈りました。
神様は何とむごい仕打ちをするのでしょうか?
何の落ち度もなく、普通に自然に生きてきた人達になんて事をするのでしょうか?
人間は神を冒涜する行為をしてきたというむくいだとでも言うのでしょうか?
その理不尽さに私は泣きました。

それから2年後。
私はやはり仙台の歌声喫茶の帰りに、今度は気仙沼の被災地へと行きました。
大型の漁船が海から600メートル奥の陸地にまで乗り上げたという有名な場所です。
3年経っても被災地の惨状は基本的に何も変わってはいませんでした。
ガレキを撤去して更地にし「さあ家を建ててください」と言われても、
1メートル近く地盤沈下してしまった場所になど、怖くて家など建てられず筈がありません。
気仙沼港に漁業市場があるのですが、
その横の海の中、水深30センチに白線が見えるのです。
それは地盤沈下してしまった道路のセンターラインなのです。
それはゾッとする光景でした。

昨年は再び石巻へと行ってみました。
乗ったタクシーの運転手さんは、津波で奥さんを亡くし、
勤めていた会社も無くなってしまい、仕方なくタクシーを始めたそうです。
2011年に一人で歩いた被災地には、記念碑的なオブジェがあり、
6メートル90センチ。津波はここまで来ましたというポールが立っていました。
そのポールを見上げると、こんな高さまで襲ってきた津波を見たら、
足がすくんでしまい、何も出来ずに死んでいった人たちがどれ程いた事かと、
改めて津波の恐ろしさに戦慄するばかりでした。

私たちは戦後空前の死者を出した、この津波の恐ろしさを忘れてはならないと思うと共に、
「戦争反対・戦争反対」と錦の御旗の如くに言い続けている方々に、
現代の戦争はこっちじゃないんでしょうか?と問いかけたい気持ちがするのです。



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初めて中国に行った時

2014-12-13 08:06:07 | 旅行
初めて中国に行ったのは20数年前でした。
中国人妻の里帰りの意味と、仕事とを兼ねて1歳10ヶ月の娘を連れての1ヶ月間の旅行でした。

北京空港に降り立つと迎えの車が来ていました。
北京から目的地の天津までは100キロの道のりです。
車窓から、初めての中国の第一印象は・・
「共産主義はダメだなー」でした。

兎に角、人々が働いていないのです。
道端に寝そべっていたり、あちこちでダベッている光景ばかりで、
真面目に働いている人なぞ、トンと見かけないのです。

天津で、商談に行った会社でこんな事がありました。
商談が終わって、さて帰ろうとしたらトラックが荷卸しをし通せんぼをしていて、
私たちの車が会社の敷地から外に出る事ができないのです。
その周りでは多くの人達が腕組みをし車座になって話をしています。

私は彼らが一体何で立話をしているのか意味が分からずに中国人の妻に訊きました。
「彼らは何をしてるの?」
妻が言うには「あの人たちは事務所の人達で、他の車が出られない光景をチョッと珍しい思いもあって
話し合っているみたいですね」と。
私は唖然とするばかりでした。
そんなのって日本ではあり得ない光景です。

上海の駅で重いスーツケースをコインロッカーに預けて観光に行こうとしたら、
係りの人が「ロッカーが壊れているので預かれない」と。
困り切って他の職員を呼んだら、ロッカーは壊れていないと預かってくれました。
つまり、仕事なぞしてもしなくても給料は同じ。
だったら仕事などする気にもなれない。
(客なんぞ来るんじゃね~よ、あっちに行け)だったんです。

街中では夕刻になるとスピーカーから行進曲のメロディーが流れ
何か共産主義的なニュースなどが勇ましく放送されていました。
「日本から距離的にそんなに離れていないけど、ここはやっぱり共産国なんだな~」
そういった思いが強烈にしました。

今、私が最も行きたい国に、北朝鮮があります。
あの国がいつ崩壊するのか・・色々取沙汰されていますが、
あれほど強烈な共産主義にがんじがらめの国を見れる機会など・・
今のうちに見ておきたいと思うからです。

(東洋の真珠・香港)も、
共産化されて、デモをやる様になってしまいました。
もう、東洋の真珠など何処にも無くなり、全く魅力のない国になってしまいましたね。
私が行った時の香港は魅力いっぱいだったんですけどね~。

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宮古島へ重ちゃんの沖縄音楽を聴きに行きました

2014-11-21 10:52:58 | 旅行
先日、エリカさんと一緒に沖縄・宮古島に行って来ました。





以前にユーチューブでたまたま巡り会った宮古島の重ちゃんのライブに魅せられたからです。

個人的に宮古島は2度目なのですが、以前行ったのが約40年前なので、殆ど記憶らしい記憶はありません。
ユーチューブというのは本当に素晴らしいものですね。
だって、それを見たが為にはるばる飛行機を乗り継いで宮古島まで行ってしまうんですから。





海に面したホテルでした。
景色は良かった。





行ってみた宮古島の居酒屋「うさぎや」は、まさしく動画の通りの重ちゃんが三線を弾いてました。
あの指笛が天才的に上手いヒデちゃんも、動画のまんまでした。
客が重ちゃんの三線に合わせてエイサー踊りで店内を躍り回るのもそのまんまでした。



来た甲斐があったーッ!
私とエリカさんは本当に感激・感激でした。




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