私の町 吉備津

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恵比寿さん

2007-01-09 23:06:04 | Weblog
 今日は宵恵比寿とかで、吉備津様から「商売繁昌で笹持って来い」の声が聞こえてきます。
 このお宮さんから「笹もってこい」と言う声が聞こえだしたのは、そんなに遠い昔ではありません。
 元禄4年の吉備津宮御絵図には、現在、えびす宮がある辺りには三重塔が描き込まれてきこまれて、このお宮は描かれては居ません。

 それはそうとして、「えびす」とは一帯どんな神さんでしょう。辞書で引きますと、恵比寿(須)、夷、蛭子、戎、胡等が当てられています。平安の頃にも、「夷」社の分社を江比寿とかな書きにした例もいくつか見えるようです。
 この「えびす」とは、いかなる神か、諸説芬々として定かではないのですが、      
 その中の一つに、まことしやかに、これぞ「えびす神」真の姿だと説明されているものがあります。
 「いざなぎ、いざなみの二神は一男三女を産給う。所謂日神、月神、蛭子、素盞鳴尊これなり。
 蛭子は三年まで足立たぬ尊としておわしければ天石櫲樟船(あめのいわくすぶね)に乗せ奉り、大海が原に推しだして流され給うが、摂津の海に流れ寄りて、海を領する神になりて、夷三郎殿と顕れ給うて、西の宮におはします」
 と、源平盛衰記に見えます。
 でも、真実はなかなか複雑怪奇で、この神の説明は一筋縄では行かないようです。
 夷三郎でもそうです。夷と三郎は、元々は別々の神であったのがいつの間にか一つになってみたり、大国主命がえびす神であったり、大国主命の御子事代主命(鯛を釣り上げた竿を持つえびす様)がえびす神であったりしながら、度々姿・形を時代時代で作り変えたりしながら、今日のような「えびす神」が出来上がったようです。
 えびす神は、今は「商売繁盛」の神ですが、元来は海全般の神から、海と関わりある航海者の安全の神に、さらに、航海者達によって、各地の産物等が交易されるようになり「市」が立ち、ここでの商売がうまくいくようにと祈った神にと、時代とともに変化し、商売繁昌を願う神となっていったようです。そのようにして、時代時代を経て、ついには財産を授ける福の神としての熱い信仰を得たようです。
 
 でも、西ノ宮が「えびすさん」の本家であることだけは変わらないようです。その西ノ宮から室町頃日本各地に分社されていき、商業が盛んになる江戸に入って、益々繁昌し、日本全国隅々に行き渡ったと思われます。
 江戸時代に商業の中心地となった大阪の恵比寿神社が隆盛を極めたのも至極当然の事です。

 ではなぜ、吉備津神社に、その分社があるのかはよく分りません。
 私の勝手な推測にすぎませんが、2,3説明しますと。
 ①元々「夷」とは蝦夷(えぞ)等異俗人を呼んでいました。九州の人をも景行天皇の時代には「夷」と呼んでいました。大和から遠隔地に折るものを総て「夷」であったようです
 また、平安の昔、野蛮で力猛々しく勇猛な人たちの集団であった関東・東北の武人たちを「東夷」と卑下しながら都の警護に使用していた貴族達から呼ばれていたそうです。
 これらのことからでも分るように、「夷神」は、ごく初めのうちは、軍事・武力に関わる神として使われていたようです。
 
 吉備津神社では、勇猛果敢な無法者、異俗人、鬼であるとされる「温羅」を何らかの形でお祭りしなくてはならない事情が生じ、「温羅」と言う言葉の代わりに「夷」(勇敢で獰猛)と言う言葉に置き換えて「えびす宮」に仕立てた。

 ②地域の古老の話しに
 「昔、賀陽栄西(栄西禅師)が宋の国へ留学する時、其の船の舳に、吉備津神社末社「えびす宮」の御神体を結わえつけて行ったので、安全な航海ができたのだ」
と、よく話しておられます。
 これから考えると、平安時代にお祭りしていた「えびす神」は「夷」ではなく「蛭子」だった。

 でも、現在お祭りしている「えびす神」は事代主命のようです。「商売繁昌で笹持って来い」の神さんのようです。
 本来の信仰の意味が廃れ、当代の流行り神にその使命を奪われたような形に変化した「えびすさま」に成り下がってしまっているようであります。
      (verbal  myths)
 

 
    ご批判願えればと存じます