私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

寒行

2008-01-10 11:04:28 | Weblog
 毎年、吉備津の普賢院(真言宗)では、寒の入りの日(今年は6日)から1週間“普賢院の寒行”が行われます。午後7時から約1時間半、お堂の仏前に近隣の老若男女が集い読経三昧の勤行を行います。
 知らずして、兼好法師の
 「散乱の心ながらも縄床に座せば覚えずして禅定なるべし」
 の心を思います。
 ここで言う「禅定」とは、経を称え奉れば、何も思わないで「無我忘我」の中に引き込まれ、心がきれいになり、仏に近づことが出来る。言い換えると、極楽浄土の彼岸に到達できることだ、と、聞いています。
 特に、「南無大師遍照金剛」というくだりを100回も称える時など、そんな心持が強く感じられました。
 ただ、同じ「なむだいしへんじょうこんごう」と、何時終わるともなく何回も何回も、ただ、僧の声に合せるだけ、一切が「無」というか、そんな難しいことでなく、自分の声を出しているのかいないのかさえも分らないような、時々周りの人々の拝む「なむだいし」などと、いう声が耳に達し、「ああ今私も、仏の御前で、読経しているのだ」と、なんとなく思うだけ。言葉だけが無意識に打ち続けられ口を付いて、不思議なことなのですが、自然に出てきます。周りに点されている蝋燭の光のように、ゆらゆらと揺れるようにしておぼろげに、お堂全体が「なむだいしへんじょうこんごう」に包まれて、なんとも摩訶不思議な境地にしてくれます。「これぞ禅定か」と、心に横切ります。
 時々、本堂の奥にある不動明王の怪しげなる目がぎらりと、私に向く。
 至心に至ってない愚かなる己の心に恥じます。
 その時です。これこそ至心に読誦する人々の声に入り混じって、僧の打ち出す鐘の音が心地よく「ごーん」と軟らかくしかも静かなる明燈のように威厳に満ちて、お堂に純なるこれぞみ仏の声であるかのような響きます。

 1時間半の勤行でした。その後、しばらくの真西住職のお説教があって今日の寒行の終わです。明恵上人のお話を興味深くお聞きして、寒の夜風がピュウと吹き寄せ、通り過ぎるお参り帰りの人の線香の香が辺りに散らかるようにして流れてきます。なんだか大手を降りたいような心持に浸りながら、家路に着きました。
 

  
    寒の僧の 背中で誦ず 寒さかな
    寒の鐘 堂を流れて 人に生き    
    残り香を 夜寒に散らす 寒参り     亮

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