私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  151 藤井高雅の書簡③

2009-04-27 18:16:21 | Weblog
 高雅から紀一郎に宛てた手紙 その3
 一連の手紙の中に「張紙」として付け加え、まとめて出したことがうかがえます。手紙は飛脚便で送られ、それも現在のように安価ではなく、相当の金額が入り用だったようです。
 ある資料によりますと、江戸の市街地内でも書面一通あたり30文(約900円)もいったそうですから、大阪から宮内までは相当な金額、詳しい記録がないので分かりませんが、おそらくは、一回につき数千円以上(ある人の計算によると数万円はかかったのではないかという人もいます)は必要だったのではないかと思われます。

 「公方様御上洛にて御忠義を御尽し遊ばされ候ゆゑ、御中もなほり万事御都合よろしく相成、下々迄有がたき事に御座候。・・・・・此たびいよいよ夷船御うちはらひにきはまり候。その御そなへむきのことのはかりごとも、もっともにおぼしめし候得ども、入用大そうの事にて・・・・・・・わもじにその世話いたし候よう御内沙汰をこふむり・・・・・」

 ここに書かれている「夷船御うちはらいに・・・」ということですが、文政8年(1825年)、江戸幕府が出した「異国船打払令」とは、また、別に考え付いた「うちはら」ではないかと考えられます。
 此の高雅の書簡にあるように、文久年間にになって、再び、そんな公式な命令を出すなどといったことは考えられないことだとは思いますが、この書簡にあることが嘘だとも思われません。生麦事件をきっかけとして、イギリスとの戦いが逼迫したその時に、一時だとしても、そんなことも京あたりで話題になったのかも知れません。歴史にはのってはいないのですが。
 もしそんなことをすれば、膨大な資金は必要になり、幕府でも、とてもそれだけの大金を出すことは無理なので、大阪・堺・兵庫あたりの町人の金持ちに相談して、その費用を出させるるようにしたらという案があったのかも知れません。が、兎も角、その役を高雅が仰せつかったと、書いています。
 京あたりの誰からの指示であったのかも全く不明ですが、高雅は本気であったように読み取ることができます。
 これも歴史の一裏通りでの話だったのではないかとも思います。

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