水の門

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一首鑑賞(46):雨宮雅子「野の教会は野の花のなか」

2017年08月14日 20時36分15秒 | 一首鑑賞
基督像が泪流すと建てられし野の教会は野の花のなか
雨宮雅子『夏いくたび』


 ドイツ南部を旅して詠まれた一連の中の歌である。読後感はとてもさり気ないが、構成は巧みだ。まずキリスト像の顔のアップから書き起こされ、それが安置された教会の建物へ、そしてその教会が佇んでいる野原へと、視点がズームアウトしていく。よって、眼目は「野の花のなか」であることが分かる。
 「野の花」は、クリスチャンには親しみのある語であろう。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」とあるマタイによる福音書6章28〜30節は、信仰を持たない方にも聞き及びのある聖句かもしれない。
 雨宮は五十年間、日本基督教団の教会に籍を置いていたが、長い逡巡のすえ晩年に棄教した。逝去の一ヶ月後に発行された『短歌』2014年12月号(KADOKAWA刊)に追悼の小特集が組まれていて、三人の歌人が寄稿している。生前よく酒を酌み交わしていたというクリスチャンの三枝浩樹氏は、晩年の雨宮が酒の席で信仰の話をたびたび持ち出してきたと記し、「棄教というかたちで、神との関わりの中に今なお身を置いているのではないか」という印象を抱いたと洩らしている。
 『夏いくたび』は雨宮の最後の歌集の一つ前の歌集であり、宗教観のゆらぎのあった時期に編まれたという。歌集には、生半な信徒がいい加減に放置しているような事柄に重い眼差しを向け、こちらの深層意識を探ってくるかのような真摯な信仰の歌も多く含まれる。掲出歌は、そんな中にあってホッと安らぎを覚えるような一首だ。それは、あくせくせずとも神に装われている野の花の中にいることで、自分を揺りかごのように包んでいる神の御手を、雨宮自身肌で感じていたのでは、と思わされるからだろうか。

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