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感想:『屍者の帝国』

2012年12月31日 19時42分14秒 | 本と雑誌
屍者の帝国屍者の帝国
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2012-08-24


あくまでも読み終わった直後の感想なので、今後その評価は大きく変わる可能性を秘めているとは思う。
ただ期待し過ぎた分、辛口の評価になってしまうというのはあるだろう。

伊藤計劃が書いたプロローグは事前に読んでいた。死者を屍者として甦られて使役する世界。19世紀後半の華やかなりし大英帝国。果たしてこれからどんな展開が待ち受けているのか。

科学的あるいは神秘学的な方向を期待していたのかもしれない。しかし、物語的な訴求が強く感じられた。考えてみれば、伊藤計劃なのだからそれが必然だったのだけど。それでも、伊藤計劃自身が書いていたならどんな展開を見せただろうか。

決して難解ではないが、読みにくさを感じる文章だった。円城塔は過去に『Self‐Reference ENGINE』を読んだが、これはエンターテイメントとして書かれたとは言い難いもので、読みにくくても仕方がなかった。或いは読みにくさも含めての作品性と言えた。本書はもう少しテンポ良く読めれば、エンターテイメントとして楽しむことができたかもしれない。

以下はネタバレを含む。

まず、主人公の「わたし」に感情移入できなかった。ワトソンに限らず、著名なキャラクターを登場させる楽しみはあるが、キャラクターとしてうまく立っているかというと微妙に感じる。名前に頼っている印象を受けてしまった。

物語を引っ張るためのマクガフィンも有効とは思えなかった。屍者が死者を介さず生者から直接作られたとして何の問題が生じるのか。プロットの展開は伏線の張り方などよく出来ていると思うが、物語のための物語となっているようにも感じられた。

屍者の帝国のイメージとして、『百億の昼と千億の夜』のゼン・ゼンシティ(或いは映画『マトリックス』)の夢の世界(仮想現実)に生きる人々を想起した。諸星大二郎の「生物都市」、エヴァの「人類補完計画」、『ハーモニー』の結末などのアンチユートピアとも連なるが、それを単純にアンチユートピアと位置付けられるのかというのが現在の問題意識と言えるかもしれない。

本書の場合、屍者化のマイナスイメージが先行してはいるが、強力な否定の論理も十分に描かれているようには感じなかった。そうした中立性はSFらしくもあるが、物語的には牽引力の弱さにも繋がる。既に行き渡った技術をなくすことができるのかという点では「原子力」の問題ともリンクしそうだが、切り口としてそれほど連関性は感じなかった。

言語を始め、伊藤計劃らしいテーマ性が随所に散りばめられていたが、全体として機能しているかは微妙に思う。パーツパーツは悪くないが、全体ではバラバラなように見えた。作品の成立過程からすれば仕方ないことかもしれないが。

最後にたどり着いたイメージは、『GS美神 極楽大作戦』だったりする。むしろそういうノリがもっと欲しかった。もっとキャラを立たせて、いい加減に深いテーマを語って欲しかった。ところどころバカバカしさが上手く表現できていたが、突き抜けるところまで行かなかったのが残念だ。

そして、何より、物語であり続けたことがわたしにとっては不満だった。それもまた仕方ないことだけれど。


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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
どもども、あけましておめでとうございますw (coboze)
2013-01-01 01:07:55
猫黒の後にのぞいてみたら屍者の感想があったのでw

奇天さんとベクトルは違いますがおおむね私も読んだ後は、え?こんなもん?という感じでしたねー
ツイッターで大体言いたいことは言ってしまったので割愛ですw

円城氏的にはジョーカー(orババ)引いちゃったといったところでしょうか…
ただ茨の道と分かって敢えて進んできちんとまとめた手腕は当然賞賛されてしかるべきだと思います
でも、全く円城氏の著作をっ読んだことない私が円城氏の作品を読んでみたいと思ったかどうかは…w
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あけおめですーw (奇天)
2013-01-01 01:33:02
期待値の高さだとか、いろいろな状況考えれば、こんなものかなって感じですかねー。
ツイートの内容は概ね同意ですし。
伊藤計劃本人が書いていたら、というのがある意味すべてなのかもしれませんw

円城塔は1冊読んだだけですが、屍者の数倍、或いは数十倍読みにくいですし、エンターテイメント的な面白さはないですし、読んだという自己満足を得るための作家って感じですけど、他の人には書けないものを書ける作家ですので、それはそれでいいと思います。ただ屍者向きじゃあないですよね、ホント。心意気が素晴らしいのは間違いないですけどw

記事にも書きましたが、椎名高志にコミック化して欲しいなとか・・・もちろんオリジナル色強めで。伊藤計劃が書くようには誰も書けないのだから、もっと書き手のらしさを出すべきだったとは思います。
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うーん、普通でしたか(苦笑)。 (名無し)
2013-01-22 02:07:06
まず感じたのは、インタビューでも言っていたと思うのですが、伊藤計劃の衣鉢を継ぐ、という目的ではないという事でした。
当然と言えば当然ですが、なんであれ同じ事を書き得る人間はいませんし、まして伊藤計劃の場合、置かれていた状況を共有することは不可能でしたでしょうし、これは意図的だろうと思います。

ただ、そうした作者同士のレイヤーでも感じる事はあって、「作品」として自分たちが普段受け取っている媒体は作者イコールの位相ではない、という、何か妙にイーガン的ですらある(苦笑)感覚でして。
ディファレンスエンジンの合同解説でもこれは意図されて書かれてましたが、二人が共同で書いた文章はどこからどこまでが伊藤計劃で円城塔なのかを、読者が受け取るレベルで解体しようとする動きがあり、これは屍者を読んでいる最中、基本的には円城塔の文章でありながら、所々、句読点やセンテンスの区切りなどで介入してくる伊藤計劃の言葉を意識させられてました。

で、読む前はキム・ニューマンかと思ってたんですが、これは案外とチャールズ・ストロス的なんじゃないかなとw
ガジェットの選び方にしろ問題解決にしろ、巨大な陰謀渦巻く群像劇ではなく、あくまで、意思と主体(と、読者)を巡る「普段の」円城塔スタイルを、伊藤計劃の遺稿を通して抽出したのが屍者の帝国だったかな、というのが自分の感想です。
ワトソン(ボンド、ですが、ストロス的にはこれは違いますけどw)、バーナビー、ハダリー、と言った並びでも、他にもっと選べるような英傑はいたはずなのにそれは無視されてますし(ブラヴァッキー夫人なんかは、史実的なそれを採択しなければもっと過剰な演出ができたと思います)、このへんの運びは完全にド派手に世界を揺るがすドンパチより、淡々と情景を綴り、読者の中に論理の推移を組み立てていく円城塔節だったと思えますので。

要所要所で虐殺やハーモニー、ブログでの記述を意図させるようなガジェットも登場してましたが、それも半ば読者を意識してのことだとしたら、前編通して読者との間に気を配り続けた作品かな、とも思えます。

面白かったかどうかについては……両者の信者としては、やはり最高でしたw
いや、自分の場合はお二人の作品全部に同じような判断をしてるので評価がどうのこうのじゃなくてアレなんですが(苦笑)。

これがいっそ世界を股に掛ける群像劇だったら、或いは伊藤計劃が最後まで意図していた作風だったら、と考えると、やはりどんなだっただろう、と想像はしてしまいますけれど。
これについては、円城塔が発売同日(だったと思いますが)のWEB後書きで「戦争については造詣が深くない」と書いていましたし、こればかりは個人の方向性に左右されてしまうだろうなあ、とは思ってしまいますが……なんというかまあ、これはこれで、と。
ただ案外、ハーモニーから屍者の草稿とを繋げて先を覗いてみると、この話全体は、「伊藤計劃的」であり続ける作風だったとは思います。
そして何よりも、これはエピローグに集約されてもいますが、プロローグを伊藤計劃の言葉から初めて、あの言葉で終わらせる、という意味、神林長平が「伊藤計劃という無意識との対話」として書いたものを別の視点から見た言葉が、何より自分の中に残りました。
まあ、これ自体は完全にファン心理ですし、作品の精度を高めるかどうかといえばそれらの文脈を含めなければいけないものでどうかとも考えますが、そもそも「伊藤計劃の作品を書き次ぐ」ことから始まった企画としては、この感想も妥当かなと思います。
ハーモニーの意識が自分を意識できるかという地平に、もう一段メタな意識を自然に含めることができたのはこの作品形式があってのことですから。
ディファレンス・エンジン的な改変をエンタメとして、そのラストをああして区切ったことには、ちゃんとしたビジョンも見えるかな、と思っています。
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あと、そういえば。 (名無し)
2013-01-22 02:45:59
>わたし
ネームドキャラとしての「ワトソン」が最後にああなるのは「物語として記述されるもの」を意識してるのかなと思いました。これはフライデーとの関係もですが。で、それがメタ的な読みを可能にもしてたように感じます。

>屍者が死者を介さず生者から直接作られたとして
機械論とどう向き合うか、という意味での伏線としては強みがあったんじゃないかとは思います。
伊藤計劃の作風だと、それまでに散々語られてきたそれ(意識と社会の扱い)を語りの強さで強調する、という、他の作家がやっていてもそうはならない強度をハーモニーで感じましたが、屍者の帝国で基調となっているのもそうした扱い方を意識してるのではないかなと。

ただ、「全体を取りまとめてどうか」という話だと、これは難しい部分もあるのだろうなというのは感じています。
これは仰られてるように展開の仰々しさやノリが両者の作風としてどっち付かず、というのはあるかな、ということなどで、これに関してはやはりもう少し尺が欲しかったな、と思うところですね。急に異能バトルみたいになるならそれに対する補足や、それに応じた展開があったらもう少し違う印象もあったように思います。活劇ノリが完璧に不要だったとは思わないのですが、情報と始原の言葉にはもうちょっと前提があれば「ラストバトル」にも別の印象があったんじゃないかと思いますし。
「書き継ぐ」ことと、伊藤計劃の「一つの作風たり得た」ものを一つにした結果として、それを昇華し切れるかどうかという話だったのかなとも感じてはいますが。

と、長々とすいません(汗)。
立ったキャラで馬鹿馬鹿しく世界を彩りながらテーマを穿孔する普段の円城ノリ、というのはたしかに自分も妥当だと思いますし、その話はむしろこれから別の形で読ませて欲しいと願っていますw
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あけましておめでとうございますw (奇天)
2013-01-22 23:46:53
>屍者の帝国

序盤はスペキュレイティブ・フィクションっぽくて荒巻義雄を連想しました(あるいはル・グィン)が、日本が舞台になって以降は思索性が薄れてぼんやりした作品になってしまったかなと思います。

話題性が高く(本屋大賞にもノミネートされましたねw)、完成度も決して低いわけではなく、よく出来た作品だとは思うのですが、エンターテイメントとしては不徹底だったかなと感じました。ただSFファン向けなところや、様々な仕掛けを含めてアピールする要素は非常に多く、作品の質はともかく戦略的には成功した作品と言えると思います。

『ハーモニー』がその世界観的にも無菌的なものだったのに対して、屍者や時代背景を鑑みればもっと物理的にも精神的にもドロドロしたものが描かれてしかるべきかと思いましたが、こういう無味無臭さはSFに限らず今風なんでしょうけど。どこかで尖がった部分が欲しかったですね。

特別な作品だけにこれが限界という見方もできると思います。プロローグで感じたワクワク感を越えるものを作ることができるのは伊藤計劃だけでしょうし、それを分かった上で書かれたものでしょうから。しかし、作品というものはそうした背景を理解して読まれるべきものではないと思っています。単純にひとつの作品として楽しめるかどうか。それだけ。期待の高さゆえに物足りなさが大きかったのも確かです。

円城塔は『Self-Reference ENGINE』しか読んでいないので作家に対して語ることはできませんが、基本的にこれまでエンターテイメントの枠外で書いているので、エンターテイメント的には評価しにくい作家でしょう。エンターテイメントでなくても面白い作品は多々ありますし、それはそれでいいのですが。

今後もそうした姿勢を貫くのか、この作品を描いたことがなんらかの転機になりうるのかは注目しています。
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>妥当かなと思います (名無し)
2013-01-25 00:16:10
上のコメントへの自己レスになりますが、これ、自分の発言に対してです(汗)。
言い回しで上から目線なレスっぽく見えてしまわないかと思いまして(苦笑)。
書き直すと、「そもそも「伊藤計劃の作品を書き次ぐ」ことから始まった企画としては」、「自分はこうした感想になるかな」ということですね。

>題材
病原菌、そのパターンとしての意思(ミーム)、という着想へとあのプロローグを運んだのは、作品背景からもなるほど、と思いました。
この辺りの配分が正に円城的かな、と思ったところですね。
ただ、このあたりの展開、尺の都合か、その徹底(思索的に菌糸について追い続けるなど)が出来なかったのは仕方ない面もあるのかなと。
サクッと映像的に映えるノリを作ってしまえた手腕には、実は普段の作風と比べて『こう言う書き方もできるんだ』と感心したんですがw
日本以降は展開の畳み掛けもあったのでしょうけどね。

情報の具現化はどこかで似たようなガジェットを読んだ憶えがあるんですが、思い出せなくてモヤモヤしていますw

>作品の精度と背景
多分、ここですね。
基本的に、どんな作品だろうと時代の文脈に左右されて、そこに多かれ少なかれ寄りかかっている部分があるのですが(ラノベが『その時代にしか』読めないと言われる理由もこれかなと)、
じゃあ、作者の背景を『その時点のみ選択可能な要素』として読むのは、間違ってはいないんじゃないかと。
特別な作品としての限界、というのは、その点でこそ正に感じます。
目的をベースにした作品であるからには、それを期待する読者に応える作品でなければならず、「物語」を巡る(ということは、伊藤計劃を巡る)話になるのは必然でもあったので。

いずれにしても、意思を巡るエンタメ作品としてはここ最近で飛び抜けた物があったと思いますし、その点ではファン補正含めて自分の中では傑作ですね。

本屋大賞には……これはどうにも、「背景」の方が影響しすぎてる気はしないでもないですが(苦笑)、最近の本屋大賞はTwitter他、割とサブカルなベースで話題の作品も総括してくることがあるので、それのお陰かなと思ってます。
もちろん大賞を取ってくれたら最高ですが、そうなったらなったでまた色々言われそうな気もするんですよねぇ。
「売れたらビブリアみたいにドラマ化してくれよな!」っても無理な作風ですし(苦笑)。

基本的に「巧く書ける」人で、情報を集めて、ちゃんと提示できる作家だとも思うのですが、伊藤計劃「のようにやれ」というのは、そもそも得意とする分野、感性の差というのは大きいなとは思います。
そこにある作品は作者とは関係ないのだ、という印象すら提示されたのが作品から受けた印象の一つでもありますが、作者と不可分である「それを作り出す感性」は個人の中で互換性を持たないものなんですよね。
表面的な文体だけ似せてみても、ある作家が別の作家になれはしないわけで。

そうしたものを咀嚼した上で、新しいスタイルとして書いてくれればなあ、と期待しています。
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あと、あけましておめでとうございました! (名無し)
2013-01-25 00:21:30
これは別のコメントで書いてたので追加するのもどうかと思ったんですがw
ぼちぼちながら、今年も宜しくお願いできれば幸いに思いますです。
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屍者の帝国が別に面白くない、つまらないという訳... (coboze)
2013-01-25 14:43:34
古今東西の小説の登場人物が大活躍っていうのは、アメコミのリーグオブレジェンドに通じるわくわく感と楽しさはあると思うんですけども
一番の違和感はプロローグを読んだ時のこれから何が始まるだろう、っていう期待感に本編で応えられなかったっていう一点に尽きるんですよね

モチロン作者の考え方の違い、背景の違いというのも分かりますし、友人の遺稿を完成させるというのは大変困難な仕事だったとは思いますが
それでも、言葉は悪いですがやっぱりちょっと期待外れだったというのが感想になってしまうんですよね
もうこれは、読者である私個人の感性なのでどこまで言葉を尽くしても埋まらない溝であるのは、認識していますが
自分の大好きなモノを人に進めてそうでもなかったという感想を抱かれたときにモヤモヤするのはよくありますが
それはそれこれはこれという典型の問題なのでこだわり過ぎるとこじれてしまいますw

数学関係でわたしのとっておきのオススメはマーカス・ヂュ・ソートイの”素数の音楽”ですね、数学の紹介の本なのにエンターテインメント的な展開の面白い本ですよ
事実は、小説よりも劇的ですw
後は、サイモン・シンの暗号解読なんかも面白いですが、素数の音楽で素数の面白さを理解して読むとまた面白いですよー
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円城塔版『屍者の帝国』に不満を持ったファンが伊... (奇天)
2013-01-25 18:51:48
というのはともかく、おそらく伊藤計劃自身が書いていても不満は感じた可能性が高いように思っています。『天冥の標1 メニー・メニー・シープ』のようなエンタメに徹した作品はSFプロパーではあまり書かれていませんし、テーマ性を重視した小奇麗な作風では『屍者の帝国』のプロローグから想起されるイメージを描き切れないように感じるからです。

『ハーモニー』は作風とテーマが融合したことで素晴らしい作品となりましたが、それでも中盤もう少し振り幅が欲しかったですし。
『ビアンカ・オーバースタディ』で筒井は昔ながらのバカバカしさを描いていました(昔はもっとハチャメチャでしたがw)。時代と言ってしまえばそれまでですが、スマートな作品ばかりで物足りない想いはどうしてもしてしまいます。

スタージョンの法則に従えばSFの9割はクズ。クズでいいじゃん!というノリの作品が好きなんですがwww
ラノベだと『ベン・トー』や『羽月莉音の帝国』のような熱量ばかり高い良い意味でのバカな作品がありますが、そういうノリではSFからは出せないのでしょうか。

屍者化した伊藤計劃の次回作に期待して(ぉぃ
最近ぶっ飛んだ作品に出会っていないのが寂しいですw
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>coboze様 (名無し)
2013-01-26 02:35:02
ああいえ、「自分が面白かったんだからみんなそう思え!」な雰囲気になってたらすいませんです(汗)。
連続投稿してしまったので、意見のゴリ押しっぽく見えたなら申し訳ないです。

仰ってる部分は自分も空気としてなんとなく思った部分で、一つのエンタメとして書かれ始めたであろうプロローグを書き継ぐ上でああなった、という部分に起因していると今は解釈してます(これは円城先生本人も語ってました)。
あそこからどう人物を展開させていく、と想像した時、すごく広がりのある世界(テーマに限らず、人間やガジェットをどう使うか)を想像できたのはたしかなんですよね。
ホームズでなくてワトソンなのはワトソン=ボンドだからでしょうけど、それでも本人だったら「遺稿の完成」を意識する必要がなかったわけですしね。

数学関係は新書とハヤカワ系が大半なので、これ、未読でした。
尼でもかなり高評価みたいで、早速注文しておきますw

>奇天様
それをやってしまうとコントロールが利かなくてコワイ!w
まあ、恐らく屍者の帝国はここで終止符を打つ、というのが一番妥当なのでしょうけどね。「伊藤計劃の言葉を受け継ぐ」というのは、作品ガジェットのそれをどうこうするわけではないでしょうしw、近年の特集を読んでいると、折に触れて引用される形で「そうしたテーマ、そうした考え方、そうした描写」の総体として捉えられてる部分もあって、これに関しては特殊な状況だなと思ってます。
これは度々行なわれる氏のブログの引用もそうですけれど、ご本人の輪郭を辿るような流れを感じるので。

作品そのものについては、テーマ重視になっていた、ということはあるかもしれませんね。
ただまあ、あの時点で普通に書かれたなら、案外と別の作風もあったかもしれないわけで、これは言っても詮無いことなんですが。
ただ案外、あそこでワトソンが出ててヘルシングがいた事を考えると、諜報モノ+ストロス的なものも想像できたかなと。
最近だと、どうなのでしょうね……どこからどこまでが「厳密にエンタメ」だと意識して読んではいませんが、プロパーだと、どうしてもエンタメ(この場合、ドラマのためのドラマ、コメディなら笑いのための笑い、というニュアンスになると思いますが)でもその外、大小のテーマに訴え掛ける要素を想像はしてしまいますね。
それがSFで、今求められてる物だ、という意識は、読者として流れの中で自然に持ってしまっている気はします。ジェノサイドはこの点で微妙だったというか、あれはテーマに引き摺られすぎた例だとも感じました。
最近だと、仰られてるような作風は「ダイナミック・フィギュア」くらいだったようにも思います。
馬鹿馬鹿しさで笑い飛ばすような作風、というわけでもないですけれどw

SFの9割は(ryがいつ頃言われたのかはわかりませんが、「だからなんだ」というノリには出会っていないような気はしますね。案外、その反動で今のSFが硬いテーマに位置付けられてるのかなと想像したりもするのですけれどw

ラノベはまあ、馬鹿馬鹿しさを意識するあまり、意識的なぶっ飛び方を演出してるようにも思えてきて、なんかこっちはこっちで自家中毒状態だとも思えますけどね(苦笑)
こういう層を作ったのだからここに当て嵌められる作品を、という流れを感じるのがこちらなので。

こういう時にこそSFからそうした作品が出てくれば「新しい!」と思えるかもしれませんね。
って、まあ、実は円城先生のSREが出た当時、アレは正にそうだったんですがw

とりあえず、近日発売の映画評で伊藤先生のミームと触れ合おうかとw
ワトソンではないですが、あの感覚をいつでも読み出せるようにw
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