前回の相生坂(昌平坂)を坂上から東へ下り湯島聖堂前を過ぎてすぐのところを左折すると、団子坂の坂下である。聖堂を左に見てまっすぐに北へ上り、坂上で本郷通りにつながる。坂下側は緩やかであるが、上に行くとちょっと勾配がきつくなる。
この聖堂の東わきの坂は、聖堂側の坂上に立っている説明板では昌平坂となっているが、横関によれば、昌平坂とよぶには根拠がかなり曖昧のようである。坂わきの聖堂と関わりが深いようなので、聖堂の歴史につき横関を参考にして簡単に記す。
前回の記事のように、聖堂は、元禄四年(1691)五代将軍綱吉のとき上野から現在の地に移されたが、その後、近代に至るまで、たびたび焼失し、そのたびに再建されてきた。元禄十六年(1703)の大火で聖堂も焼け、ただちに新築再建されたが、明和九年(1772)の大火で焼け、その後、寛政十一年(1799)、十一代将軍家斉が境内も前よりもずっと拡大し、元禄の聖堂よりもりっぱなお堂を再建した。これが近代まで残っていたが、大正12年(1923)の関東大震災で灰燼に帰してしまった。いまの聖堂は昭和10年(1935)に新築されたものである。
寛政十一年(1799)以前には、聖堂のわきに神田明神の鳥居からまっすぐに見通しになっていた坂があり、これが前回の聖堂前の昌平坂とは別の昌平坂であった。横関にのっている元禄六年(1693)の江戸地図に、神田川の北側の聖堂のわきに昌平坂とあり、その向かいに神田明神の参道がある。また、手もとにある寛政九年(1797)の江戸地図(奥村喜兵衛)を見ると、神田川の北側に聖堂があり、その東わきの道に、しやうへい坂、とある。その道を挟んだ反対側に神田明神の鳥居が描かれている。いずれの地図にも聖堂の敷地がいまよりも小さめに描かれ、寛政の再建前はさほど大きくなかったようである。
寛政十一年(1799)に聖堂ができるとき、上記の聖堂わきにあった昌平坂は、拡張により境内に囲い込まれてしまった。これによってこの坂は消滅した。その後、旧昌平坂に平行した聖堂の外の坂を新しく昌平坂と命名した者がいるのだという。その名称が消えることを惜しんで残そうとする人たちだろうと推測されている。しかし、そのとき、すでにその坂は江戸庶民に団子坂とよばれていた。
坂上の説明板に次の説明がある。
「昌平坂 湯島一丁目1と4の間
湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。
萬代の秋もかぎらじ諸ともに
まうでゝ祈る道ぞかしこし
文京区教育委員会 平成18年3月」
上記の説明板に「学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ」とあるが、三つの坂とは、聖堂前の昌平坂(相生坂)と、寛政の再建まで存在した昌平坂と、現在の団子坂と思われる。最後の坂について「昌平坂」と他の坂とひとしく呼んだとする根拠が何であるのか疑問が残る。
いつもの尾張屋板江戸切絵図に、聖堂の東わきにこの道があるが、坂名も坂マークもなく、この坂上と神田明神の鳥居の位置はずれている。近江屋板もほぼ同様である。その後の東京大絵図(明治四年)も実測東京全図(明治11年)も同じく神田明神の参道と坂上はずれている。このように、寛政の再建以降、聖堂の東わきの坂は、神田明神の鳥居からまっすぐに見通せる坂ではないが、この点は、上記の説明板も「三つの坂」としているから認めているものと思われる。
千代田区のホームページには次の説明がある。
「56.昌平坂(しょうへいざか)団子坂(だんござか)
外神田二丁目2番地西と湯島聖堂との間、千代田区と文京区の境界線上にある坂です。昌平の名は、湯島聖堂に祀ってある孔子の生まれた中国魯の国の昌平郷にちなんでつけられました。別名の団子坂は、急坂で団子のように転ぶということから、住民が呼んだ名だということです。
湯島聖堂南側の神田川沿いの坂も昔は昌平坂と呼ばれていましたが、今は相生坂と呼ばれています。やはり文京区との境界線上の坂です。」
上記の説明は、消滅した旧昌平坂には言及していないが、団子坂の坂名を紹介している。(前回の相生坂の説明板では旧昌平坂を説明している。)
上の二枚目の写真のように、坂下聖堂側角に「古跡 昌平坂」と刻まれた石標が立っているが、かなり微妙な位置にある。というのは、この石標はこの坂(写真左上へ上る)を指すと思われのであるが、写真左下から右下へ下る相生坂(昌平坂)を指す(または両方を指す)とも考えられるからである。
横関は、この坂の頂上にあったという「古跡昌平坂」の石標について驚きをもって、この「古跡」はおかしく、どうしても建てるなら聖堂の境内で神田明神の参道から見通しの位置を選ぶべきであったとしている。確かに寛政の再建以前の坂には合うが、それ以降のいわば「新昌平坂」とでも呼ぶべきいまの坂には合わないと思われる。(坂上にそのような石標があったかどうか気がつかなかったが、「東京23区の坂道」には、坂上に上部が欠けた石標が紹介されている。)
この坂を、昌平坂と呼ぶべきか、団子坂と呼ぶべきか、という問題は、結局、坂名とは、誰が決めたのか、ということに帰着するような気がする。寛政の再建以前にあった昌平坂の消滅を惜しんでその名称を残そうとする少数の人がいたとされているが、そういった動きなどにより誰もがその坂名を認めれば、その坂名となるのであろう。しかし、この坂には、旧昌平坂が消滅する前から庶民によって付けられた団子坂という名があったというのであるから、やはりそれを優先して考えるべきであろう。これが本記事のタイトルをあえて昌平坂とせず「団子坂(湯島聖堂の東わきの坂)」とした理由である。
この考えは確かに横関説に影響されたものであるが、そもそも横関は、江戸の坂には江戸の庶民、江戸っ子が名前をつけたとし、このため、その名は江戸っ子気質そのままで、単純明快、即興的で要領よく、理屈がなくて、しかもしゃれっ気があふれているとしている。このような横関説(=庶民命名説)に惹かれるものを感じたからに他ならない。
団子坂という坂名は、横関がいうように、いかにも江戸っ子がつけたという感じがする。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)