東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三組坂~実盛坂

2011年12月29日 | 坂道

前回の立爪坂上を左折し、次を右折し、日立病院の前を通りすぎると、やがて階段があるので、ここを下ると、三組坂の坂上近くにでる。ここを右折すると、まっすぐに東へ下っている。坂下の通りは、明神下から延び、地下鉄千代田線が通っている広い道路である。写真は、坂下から坂上へとならべた。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 三組坂下 三組坂下 三組坂下側 三組坂は、本郷台地の東端から上野周辺の低地へと下る坂で、勾配は中程度~それ以下程度であるが、かなりの距離と高度差がある。坂上を西へ直進すると、横見坂上のさきの霊運寺、傘谷坂上の方に至る。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、立爪坂上を左折し、西へ進むと、妻恋神社角を右折した三組町の道(現在の清水坂上から北へ延びる道)に突き当たり、ここを右折するとすぐ右折する小路があるが、この小路は小さな四角形の御小人方の町屋敷をぐるりと一周してもとの道に戻る。 このぐるりと一周りする小路には東西に延びる小路が二本あり、そのどちらかが、現在の三組坂(坂上側)に相当するか、あるいは、どちらも相当せず、まったく新しい坂であるか、のいずれかである。そして、もう一つ問題は、一周りする東側の小路にガイサカ(=芥坂)とあることである。近江屋板もほぼ同様であるが、その坂名はなく、坂マークもない。

三組坂中腹 三組坂中腹 三組坂中腹 三組坂上側 坂上北側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「三組坂
 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷を賜った。駿府から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を三組町と改めた。
 この町内の坂であるところから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。
  文京区教育委員会  平成19年3月」

横関は、この坂を「文京区湯島三丁目の坂、妻恋坂、中坂の中間にあって、東に下る坂。もと本郷三丁目の坂。三組とは御中間、御小人、御駕籠方をいう」と説明している。

江戸切絵図には、妻恋坂と中坂との間で東へ延びる道は、上記の一周りする小路の二本を除くと、妻恋坂側に一本(立爪坂上を左折した道)あるだけである。霊運寺前の道が東に延びて三組町の道に突き当たっているが、この位置は一周り小路の東西の一本とちょっとずれている。現在、霊運寺前の道が東へと三組坂上まで延び、そのまま坂を下っているが、この坂に相当する道は、江戸切絵図にはないといえる。現代地図と御江戸大絵図とを重ね合わせてみることのできる地図(東京時代MAP大江戸編)を見ても、この坂道はない。

この坂は、実測東京地図(明治十一年)、明治地図(明治四十年)にもないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、大正から昭和のはじめ頃までに新しく開かれた坂道であると思われる。

三組坂上側 三組坂上 「ガイ坂」上 「ガイ坂」下 岡崎、大野、「東京23区の坂道」には、三組坂上からきて一本目を左折した坂がガイ坂(芥坂)と紹介されている。坂中腹にある家電会館前の四差路から北へ下る緩やかな坂で、三、四枚目の写真はその坂を撮ったものである。しかし、この坂は、上記のように、尾張屋板にある「ガイサカ」からそう紹介されたものと思われるが、尾張屋板のガイサカは、三組坂よりも南に位置するので、ここではない。ちょうど、上の地図の日立病院前のあたりであるが、ここは、現在、平坦で、坂ではない。

石川は、芥坂について「妻恋坂の中腹を北に折れて上る湯島三丁目内の坂で、立爪坂の別名があるのでもとは険しい坂だったのであろう。」とし、前回の立爪坂で引用した『御府内備考』の同じ箇所を引用している。これを読むだけであると、坂の位置は、前回の立爪坂と同じように思われるが、同著の地図(52頁)を見ると、日立病院前のあたりを示している。これは、この坂を尾張屋板の「ガイサカ」の位置と考えたことによるものかもしれない。

尾張屋板は、あくまで私見であるが、立爪坂の別名であるガイサカ(芥坂)を一回りする小路の東側に誤って記してしまったような気がする。近江屋板は一般に尾張屋板よりも坂名や坂マーク△を細かく記しているが、近江屋板には同位置に坂マークすらないことも理由の一つである。また、その一周りする小路の位置は、上記の現代地図で、日立病院の西側にある台形状となった一区画と思われるが、その東側の病院前の道は、上記のように平坦である。

実盛坂下 実盛坂下 実盛坂踊場 実盛坂上 上記の三組坂上から一本目を左折した坂を直進し、次を左折すると、階段坂が見えるが、ここが実盛坂である。坂下まで行くと、かなり急な坂であることがわかる。坂上に立つと、まさしく本郷台地の東端といった感じで、この石段ができるまでは、崖であったと思わせるほどである。坂上は、清水坂上、三組坂上から北へ延びる道である。

坂上に立っている説明パネルに次の説明がある。

「実盛(さねもり)坂  湯島三丁目20と21の間
『江戸志』によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の"実盛塚"や"首洗いの井戸"の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
  文京区教育委員会   平成14年3月」

坂名は、実盛伝説によるもののようであるが、坂自体は、先ほどの三組坂と同様に、江戸切絵図、実測東京地図(明治十一年)、明治地図(明治四十年)になく、戦前の昭和地図(昭和十六年)にある。このため、比較的最近(大正~昭和初期頃)つくられた階段であると思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京時代MAP大江戸編」(光村推古書院)

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