東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

切通坂(湯島)

2011年12月31日 | 坂道

江戸図鑑綱目(湯島近辺) 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 切通坂(湯島天神下) 切通坂下 前回の湯島天神の新坂を下ると、その前に大きな道路が通っているが、この左右が切通坂である。三枚目の写真は、その下側あたりから坂上を撮ったものである。春日通りで、通行量が多い。

坂下の交差点からまっすぐに西へ上り、途中、大きく左にカーブしてから、ふたたびまっすぐに上っている。勾配は中程度よりも緩やかといった感じで、距離はかなり長い。

『御府内備考』に次の説明がある。

「切通
 切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし、本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」

切通坂下 切通坂下 切通坂中腹 切通坂中腹 横関によれば、小山のようなところを切り通して道路つくった場合、これを切り通しとよんだ。道の左右が切り崩されて崖になっていれば、それは切り通しで、それが坂道であれば、切通坂となった。江戸時代には、初めてできた坂を新坂といい、それが名前のある二つの坂の中間にできると、中坂とよぶのがつねであったが、切り通しで坂道であれば、切通坂とよんだ。

上二枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、湯島天神と根生院との間の道に切トウシとあり、それらの東側に湯島切通丁の町屋ができている。近江屋板には同じ道に坂マーク△がある。

上一枚目の江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))を見ると、湯島天神と金生院との間に道があるが、これが江戸切絵図に示される切通坂であるかどうかはっきりしない。しかし、途中の曲がり具合が江戸切絵図と似ており、切り通し以前にはどんな細道もなかったと思われるので、切通坂と思われる。そうだとすると、江戸時代の比較的初期につくられた坂ということになる。

切通坂上側 切通坂上側 切通坂上 この坂は、本郷台地の東端に切り開かれた坂道で、上記の『御府内備考』にあるように、本郷三、四丁目の間から池の端、仲町への便利な道となったようである。切り通しにできた崖に前回の湯島天神の新坂ができたのであろう。

この坂は、坂上がどこかはっきりせず、そのためかなり長い。そのまま春日通りに沿って本郷三丁目駅へ。

携帯による総歩行距離は16.4km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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天神男坂~天神女坂

2011年12月31日 | 坂道

江戸図鑑綱目(湯島近辺) 尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天神男坂上 天神男坂上 前回の中坂上を右折し、北へそのまま直進すると、湯島天神の鳥居がある。ここをくぐり、境内に入り参道を進み、次を右折すると、男坂の坂上にでる。東へ向けてまっすぐに下っている。ここも本郷台地の東端にあたり、かつては崖であったのであろう。男坂の名のとおり急な石段坂である。天神石坂ともよび、たんに石坂、男坂ともよぶ。

『御府内備考』に次の説明がある。

「天神石坂
 天神石坂は中坂の北にあり、こは社地通用の為の坂なれど、本郷の方より上野広小路辺への往来となれり、石階□□あり、此坂下より広小路の方への直路を天神石坂下通りと呼び、その辺の武家地をもしか称せり、」

天神社の通用の坂であったが、本郷と上野広小路との間を行き来する通りとなった。広小路へと延びる坂を天神石坂下通りとよんだ。現在も、この石坂を付近の人はふだんの行き来に使っているようである。

天神男坂途中から 天神男坂下 天神男坂下 天神男坂下から女坂下への小路 上一枚目の江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))の湯島近辺を見ると、湯島天神に鳥居と石段らしいものがあるが、現在の石段坂と思われる。 この坂の下に「柳の井」という名水があったという。『紫の一本』(天和二年(1682))に次のようにある。

「柳の井
 湯島天神の下、東へ下る石壇の坂の下にあり。この石壇の坂、太田道灌の時代は天神の表門なりとぞ。いまは裏門のよしなり。この井は名水にて、女の髪を洗へば、むすぼほれたる髪のいか程の薬にてもとけざるも、はらはらとほぐれ垢よく落つるとて、「気晴れては風新柳の髪を梳る」と云ふ心にて、柳の井と名付たるとぞ。」

太田道灌の時代には、この坂が表門であったとある。

坂下を左折し、四枚目の写真の小路を通り抜けて左折して行くと、天神女坂の坂下である。

天神女坂下 天神女坂踊場 天神女坂上側 天神女坂上 天神女坂は、石段であるが、その名のとおり、途中何箇所か踊り場があり、緩やかな階段となっている。男坂と高低差は同じであるので、ちょっと長めになっている。坂上に立つと、左側が男坂上である。

上一枚目の江戸図鑑綱目には(元禄二年(1689))女坂がない。上二枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、中坂上を左折し直進した所に鳥居があり、また、東側に、坂名はないが、多数の横棒による階段のマークが男坂の位置に記されている。そのとなりに曲がって同じように描かれた階段が女坂である。女坂は長めになっている。近江屋板にも同じ道があるが、横棒は男坂の一部にしかない。

石川によれば、湯島天神は、菅原道真と天手力男命(あめのたぢからおのみこと)を祭神とし、足利時代の文和四年(1355)湯島郷の人々が霊夢によって古松の下に勧請、その後すたれたが、太田道灌が文明十年(1478)に再建したと伝えられているという。

天神新坂上 天神新坂踊場 天神女坂下 天神女坂下 坂上からふたたび境内に入り、参道を右折して行くと、一枚目の写真のように下りの階段となる。北側にある切通坂の方へ出る石段である。神社のホームぺージにある境内案内図には、この階段に夫婦坂とあり、階段のわきに戸隠神社、笹塚稲荷がある。

横関は、この坂を湯島天神の新坂として紹介し、文京区湯島三丁目、湯島公園の北すみに立つ地主神、戸隠神社の東わきから北に切通坂に下る石段の坂をいうとしている。現在、戸隠神社などは、湯島天神の敷地内にあるので、公園が神社に取り込まれたのであろうか。

幕末の江戸切絵図にはこの石段はないが、明治地図(明治四十年)、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、明治以降につくられたものである(横関)。

夫婦坂という坂名は、男坂と女坂に合わせて、この新坂に神社が命名したものであるというが、横関は江戸時代からの夫婦坂という坂の名の条件に合わないので、無理な命名であるとしている。

また、横関は、戸隠神社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)であり、この地の地主神であって、手力雄命を祭ったのが先で、のちになって菅原道真を配祀したものと推測している。そして、これをもって、軒を貸して母屋をとられた観があるとしているが、大変おもしろい見方である。こういったことが日本では繰り返されたのであろうか。これは、吉本隆明が「敗北の構造」において、日本の統一国家の成立過程で、天皇制勢力がそれ以前に存在した郡立国家の法や宗教や習慣などを取り込んで自らの法や宗教や習慣などとし、あたかも遠い以前から存在したように装ったとしていることに通底する考えである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
吉本隆明「敗北の構造」(弓立社)

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