東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

中坂(湯島)

2011年12月30日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 中坂下 中坂下 中坂中腹 前回の実盛坂上を右折し、北へちょっと進むと、中坂の坂上で、右にまっすぐに下っている。途中、左に少し曲がってからふたたびまっすぐに下る。三組坂と同じく、本郷台地の東端から上野周辺の低地へと下る坂で、勾配は中程度である。距離も長い方である。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、前回の三組町の通りの北、湯島天神の門前手前に東へ延びる道があるが、ここに中サカとある。近江屋板にも同じ道に△中サカとある。

横関によれば、この坂について「文京区湯島三丁目を西から東へ下る坂。古い昔は天神石坂と妻恋坂との間の坂であった」と説明されている。中坂というのは、二つの坂の間に新しくできた坂で都内でよくみられ、たとえば、九段坂のとなりの中坂などがある。ここの場合は、天神石坂と妻恋坂との間に新たにできた坂とされている。

中坂中腹 中坂上側 中坂標識 中坂標識裏面 坂上北側に三枚目の写真のように、文京区によくある形式の坂標識が立っているが、位置がちょっとおかしい。というのは、この形式の標識は、裏面に坂の説明があるのに、歩道の端の植え込み側に立っているため、裏を覗くようにしないと説明を読むことができない。通常は車道と歩道との境に立っているが、設置する位置を間違えたのであろうか。四枚目の写真は、その裏面を撮ったもので、次の説明がある。

「中坂(仲坂)
 『御府内備考』に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
    まゐり来てとみにあかるき世なりけり
           町屋の人のその人の顔かお   (釈 迢空)
  東京都文京区教育委員会  平成元年11月」

中坂の由来について上記の横関と同様の説明である。

上記の『御府内備考』からの引用の全文は次のとおりである。

「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ、此坂を下れは下谷長者町の方への直路なり、」

中坂上側 中坂上 中坂上 江戸図鑑綱目(湯島近辺) 元禄二年(1689)の江戸図鑑綱目の湯島近辺を四枚目に示すが、神田大明神があり、その明神下の道が北へ延び、二本目を左折すると、妻恋坂下で、その上(西)に鳥居のマークが描かれているので、ここが妻恋神社と思われる。この神社は、明暦三年(1657)の大火後、万治(1658~1661)のころ、この地に移ったので(妻恋坂の記事)、上記の地図のできた時期より前である。

妻恋神社の南脇の坂上で右折し、北へまっすぐに続く道(上記の江戸切絵図(文久元年(1861))にある三組町の通り)の突き当たりが湯島天神である。そこを東へまっすぐに延びる道が中坂と思われる。

この坂は、天神石坂と妻恋坂よりも新しいとされるが、上記のように、元禄二年(1689)の江戸図に中坂があるので、かなり古い坂であることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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