東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

明神男坂(明神石坂)

2011年12月19日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天神男坂上 天神男坂下 天神男坂下 前回の湯島坂上の神田明神の鳥居をくぐり、神田明神の手前で右折しちょっと歩くと、明神男坂の坂上である。石段坂でその名の通りかなり急であるが、途中、二、三箇所踊り場がある。坂は東ヘと下り、本郷台地の東端に位置する。ここは神田明神も含め、外神田二丁目で、千代田区である。

坂上に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。」

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))の部分図を見ると、神田明神の東に坂マーク(多数の横棒)が見える。ここがこの坂と思われる。近江屋板にも同じ位置に同様のマーク(△の坂マークではなく)がある。

天神男坂下側 天神男坂中腹 天神男坂中腹 天神男坂上側 男坂とあるからには、女坂はどこかと調べると、石川に、「神社の北裏を文京区の湯島三丁目へ下っていたが、いまではビルに坂口をふさがれて廃道となっている」と説明されている。明治地図や戦前の昭和地図を見たが、そのような石段坂は示されていない。

東京23区の坂道」は、男坂の南にある女坂を紹介している。「新」女坂とよぶべきものかどうかよくわからないが、あった方が自然であることは確かである。今回は行けなかったが、いつか訪れてみたい。

『御府内備考』の神田明神表門前の書上に次のようにある。

「一石坂 高さ四丈余、幅 二間、
 右町内東之方に有之候、明神裏門の坂にて登り拾八間、内上の方六間町内持に御座候、」

同じく神田明神裏門前の書上に次のようにある。

「一町内西の方に明神裏門え登り候石坂有之候、右は明神表門前より申上候通に御座候、尤登り拾八間、内下の方十弐間町内持に御座候、」

上記からこの坂は江戸期から石坂であったことがわかる。また、神田明神表門前と裏門前で、持ち(修理などの分担)が上から六間、下から十二間と決まっていたようである。

坂下(外神田二丁目)は、切絵図にもあるように明神下ともよばれ、もとの神田同朋町で花柳界であったという。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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聖橋~湯島坂

2011年12月19日 | 坂道

今回は、湯島聖堂の裏手を通る本郷通りの北側と湯島天神の北側の春日通りとの間にある坂を巡った。本郷台地の南端から東端のあたりである。

聖橋から東側 聖橋北詰 団子坂上 団子坂上 午後丸の内線お茶の水駅下車。

相生坂(昌平坂)の北側歩道を下り、聖堂の中に入り、ここを通り抜けて階段を上り、聖橋に行く。一枚目の写真は橋の東側を撮ったものである。きょうも晴天なので、青空を背景にした風景となっているが、前回の曇りのときと感じが違う。左の樹木のある所が湯島聖堂で、その前が相生坂(昌平坂)である。二枚目は戻ろうとして北側を撮ったものである。銀杏並木が黄に色づき、青空とよいコントラストをつくっている。

聖橋北詰の階段を下って引き返し、前回の団子坂(坂上に「昌平坂」の標識が立っている)を上る。三枚目の写真は坂上を右折し、振り返って坂上を撮ったものである。角に低い石柱が小さく写っている。右側の道はこれから行く湯島坂の坂上付近である。

四枚目の写真は、上記の石柱で、上が欠けており、「昌平坂」の下の二文字が残っている。この石標は、横関が「この団子坂の頂上に、「古跡昌平坂」と刻した石標が建てられていることを知って驚いた」としているものかもしれない。坂下にある石標も同じに刻されているが、二つの石標の関係はどうなっているのだろうか。坂下の石標の裏面には「昭和十二年」と彫られている。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 湯島坂下 湯島坂中腹 湯島坂中腹 団子坂の坂上の左右が湯島坂である。坂下まで下るが、ほぼまっすぐに南東へ下っている。二~四枚目の写真のように、勾配は中程度といったところで、本郷通りであるため道幅が広い。坂下の交差点からふたたび上る。

『御府内備考』に次の説明がある。

「湯島坂 湯島坂は明神の前より東へ下るの坂なり。則湯島壹丁目なり、【改選江戸誌】」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、一枚目のように、聖堂から東(下側)へ延びる道に、湯島一丁目とあるので、ここが湯島坂と思われる。近江屋板には坂マーク△がある。聖堂の東わきで神田川へと延びる短い道が団子坂である。

江戸切絵図で、団子坂上が湯島坂の上側とつながっているが、ここで湯島坂上側の道は右に曲がってからまっすぐに延び、ふたたび左に曲がってから西へ延びている。ちょうど聖堂の敷地が北へ台形状に出っ張っているような形である。明治実測地図(明治11年)を見ると、確かに聖堂の裏手でわずかに台形状になっているが、切絵図ほどではない(切絵図はデフォルメしているということと思われる)。これが、明治40年の明治地図ではいまと同じようにほぼまっすぐになっている。本郷通りには市電も通っており、この間の明治の道路工事で、江戸から続く曲がった道を拡幅しまっすぐにしたと思われる。神田明神の鳥居の西側がもっと拡がっているのに対し、いまは本郷通りに沿っているが、その間にある小路がそのときの名残かもしれない。

湯島坂上 湯島坂上 湯島坂上 湯島坂上 三枚目の写真は神田明神の鳥居のちょっと東側から坂下を撮り、四枚目の写真は鳥居の下から通りを挟んだ向こうの聖堂裏を撮ったものである。これらから鳥居の前あたりが湯島坂の坂上といえそうであるが、切絵図でちょうど坂下から来て二度目に折れ曲がった所に鳥居がある。当時の鳥居の位置がいまと同じとすれば、むかしも鳥居前のあたりが湯島坂の坂上といえそうである。湯島坂の別名は、明神坂、本郷坂であるが、前者は坂上が神田明神の鳥居のある参道前であったからと思われる。

かつて聖堂の東わきにあった昌平坂は、聖堂の中に取り込まれて消滅したが、神田明神の鳥居から見通しの位置にあったというから(団子坂の記事)、鳥居の下から聖堂側を撮った四枚目の写真のあたりにあったことになる。『御府内備考』に次の説明がある。

「今昌平坂と称せるは聖堂御構の東にそへる坂をいへば、こは後年その名の移りしなるべし、昔の昌平坂は寛政十年聖堂御再建の時御構の内に入しと云、【改選江戸誌】に云、【湯原日記】に、元禄三年十二月十六日、聖堂の下前後の坂を今より昌平坂と唱ふべきよし定らると見ゆ、是魯国昌平郷になぞらへてかく名付玉ひしなり、元禄四年の聖堂図には堂の東に添て坂あり、其所に昌平坂としるせり、しからば聖堂と鳳閣寺の間の坂なれば、今の御構の内なり、今聖堂の前東の方なる坂をいふようにも伝ゆれと誤りにや、たゞし【湯原日記】に前後の坂といふによれば、こゝも昌平坂といひしにやと、」

団子坂の記事で、横関説を紹介したが、再掲すると、上記の「今昌平坂と称せるは聖堂御構の東にそへる坂」は、寛政の聖堂再建の時、すでに江戸庶民によって付けられた団子坂という名があった。このため、昌平坂よりも団子坂といった方がよいということである。綱吉が昌平坂と命名したという「聖堂の下前後の坂」とは、いまの相生坂と、寛政の再建時に聖堂の中に取り込まれて消滅した昌平坂であるから、いま、昌平坂は一つ(相生坂)しかない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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