前回の湯島坂上の神田明神の鳥居をくぐり、神田明神の手前で右折しちょっと歩くと、明神男坂の坂上である。石段坂でその名の通りかなり急であるが、途中、二、三箇所踊り場がある。坂は東ヘと下り、本郷台地の東端に位置する。ここは神田明神も含め、外神田二丁目で、千代田区である。
坂上に立っている標柱には次の説明がある。
「この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。」
一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))の部分図を見ると、神田明神の東に坂マーク(多数の横棒)が見える。ここがこの坂と思われる。近江屋板にも同じ位置に同様のマーク(△の坂マークではなく)がある。
男坂とあるからには、女坂はどこかと調べると、石川に、「神社の北裏を文京区の湯島三丁目へ下っていたが、いまではビルに坂口をふさがれて廃道となっている」と説明されている。明治地図や戦前の昭和地図を見たが、そのような石段坂は示されていない。
「東京23区の坂道」は、男坂の南にある女坂を紹介している。「新」女坂とよぶべきものかどうかよくわからないが、あった方が自然であることは確かである。今回は行けなかったが、いつか訪れてみたい。
『御府内備考』の神田明神表門前の書上に次のようにある。
「一石坂 高さ四丈余、幅 二間、
右町内東之方に有之候、明神裏門の坂にて登り拾八間、内上の方六間町内持に御座候、」
同じく神田明神裏門前の書上に次のようにある。
「一町内西の方に明神裏門え登り候石坂有之候、右は明神表門前より申上候通に御座候、尤登り拾八間、内下の方十弐間町内持に御座候、」
上記からこの坂は江戸期から石坂であったことがわかる。また、神田明神表門前と裏門前で、持ち(修理などの分担)が上から六間、下から十二間と決まっていたようである。
坂下(外神田二丁目)は、切絵図にもあるように明神下ともよばれ、もとの神田同朋町で花柳界であったという。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)