東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

薬罐坂

2010年12月30日 | 坂道

薬罐坂上 三丁目坂上を西に進む。目白坂から三丁目坂までいずれも目白台地から音羽谷に下る東側の坂であったが、ここからは台地の北側にある坂である。直進すると、食い違いのようにちょっとずれた交差点に至るが、ここを右折すると、薬罐(やかん)坂の坂上である。かなり緩やかにまっすぐに下っている。途中に立っている説明板に次の説明がある。

「薬罐坂(夜寒坂) 目白台2丁目と3丁目の境
 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野カン(豸+干)とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
  この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」

薬罐坂途中 尾張屋板江戸切絵図を見ると、上記の説明のように、松平出羽守の屋敷の西側に道が南北に延びており、この北側の道がこの坂と思われる。坂下東北側に護国寺(五代将軍綱吉が生母桂昌院のために建てた寺)が大きく描かれている。近江屋板にも同じ道筋があるが、東側が青山百人組添地となっている。坂マークや坂名はいずれにもない。

同名の坂が他にもあり(以前の記事参照)、坂名の由来について諸説があるが、横関は、その一つ野干坂は地方ではきつねざかと仮名を振っているとし、野干から薬罐に転じた理由について次のようにおもしろいことを書いている。

「安永六年(1777)ころの流行語に、そのころの美人、笹森おせんが欠落(かけおち)して、茶店におせんの代りとして老爺が出ていたので、世間では「とんだ茶釜が薬罐に化けた」といって、さわいだものであった。茶釜は美人を意味し、薬罐は、はげ頭の老爺のことをいったのである。
 薬罐は、そのころの流行語であったから、本当は野干であるべきを、薬罐と書いて、銅薬罐を化け物に仕立てたのではないだろうか。狐坂では平凡なので、野干坂と書くべきところを、流行語を使って、薬罐坂と書いたのではないだろうか。だから、幽霊坂と同じような寂しいところの坂は、みな、やかん坂といったのであろう。」

なお、横関の坂の名著「江戸の坂 東京の坂」「江戸の坂 東京の坂(続)」は中公文庫のものを参考としていたが、最近、二冊を併せ一冊となった文庫本がちくま学芸文庫として出版され、索引も合体している。こちらが便利で、以降、これを参考図書とする。

薬罐坂下 写真は坂下から撮ったもので、坂下側で少し勾配がついている。坂下の不忍通りと坂上の目白通りとを結ぶ一方通行の細い道で、静かな住宅街となっている。(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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