東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

玉川上水(万助橋)~本町通り(太宰治文学サロン)

2011年12月12日 | 文学散歩

万助橋付近 万助橋付近 玉川上水沿い 玉川上水沿い 前回の井の頭公園の西端の万助橋で吉祥寺通りを横断すると、道路と玉川上水との間に歩道ができている。ここを西へ三鷹駅方面に進む。この道は、玉川上水に沿ってまっすぐに延びているが、風の散歩道というらしい。

ここまでは、玉川上水沿いに樹木で囲まれた散歩道ができており、そのため、野趣に富む散策ができたが、ここからは市街地であるので、もはやそのような雰囲気は期待はできない。それでも柵内側の玉川上水のほとりは、ここでも樹木で鬱蒼として、それまでの風景が残っている。葉が紅や黄に色づいている中で常緑の葉も目立つ。これらに空の青さが加わると、一年の内でもっとも鮮やかなコントラストをつくり出す季節と思ってしまう。落ち葉が歩道を埋め尽くし、枯葉の上を歩くとさくさくと音がする。この季節ならではの独特の感じである。

少量でも水が流れることで樹木の生育を助けている。都内のあちこちでみられるように、川を埋め立てて、その上を緑道とするよりも、堀を残し、水を流す方が緑のためにはよいのであろう。ここは、埋め立てられていないので玉川上水に沿ってグリーンのベルトができ、その上水本来の役割を終えたとはいえ、いまも都市に潤いをもたらす重要な機能を発揮しているといえそうである。

むらさき橋付近 玉鹿石 玉鹿石銘板 玉鹿石 むらさき橋を越え、少し歩くと、二~四枚目の写真のように、玉川上水と反対側の歩道の植え込みのところに大きな石が置いてある。わきの銘板には三枚目の写真のように青森県北津軽郡金木町産と記され、太宰の故郷産の玉鹿石である。このあたりが太宰治と山崎富栄の入水地点と推定されているようで、そのために置かれたのであろう。

このあたりのことは以前の記事でも触れた。そのとき、太宰治展からのかえりにふとしたことで耳にした「一人で死ねばよいのにね」についての感想に及んだが、今回、吉本隆明の太宰治の思い出インタビュー(「東京人」)を読んだら、次のようなことを語っていた。

「心中について、どうせ死ぬなら一人で死ねという人もいた。文学や芸術は政治のように人に強要する力はないが、人倫に制約されるものでもない。自由そのもの。一般的な倫理観で裁断できない。それでは批評したことにならない。」

吉本が語っているのは、心中当時世にあった太宰に対する批判の一つと思われるが、これにより、山崎にではなく、太宰に向けられたものもあったことを知った。よく考えてみれば、誰もが太宰ファンということはないから、当然ではある。そういった見方があったということは、いまもそう思う人がいても不思議でないということである。「一般的な倫理観で裁断」する結果、そのような批判に至るのか、しかし、それではなにも語ったことにならない。それを吉本は強調している。

当時、太宰に対するもの、山崎に対するもの、いろんな批判があったようであるが、もちろんこれらのことを現代の人は笑うことはできない。いまでも一般的な倫理観による裁断から自由ではないからである。もっといえば、それのみが横行しているといってもよい。

玉鹿石から西側 玉鹿石付近 小広場 小広場パネル 玉鹿石から西へちょっと歩くと、左手に、三枚目の写真のように、歩道がちょっと膨らんだような小さな広場があり、その端の植え込みに低くパネル(四枚目の写真)が立っている。太宰の写真がのっており、玉川上水のほとりに座り込んで流れを眺めているように見える。この写真は昭和23年(1948)撮影で、その服装から冬~早春のようであるが、入水はそれから数ヶ月後のことである。この小広場の近くも入水推定位置なのであろうか。

吉本隆明は生前の太宰に会ったことがあるという。そのことは知っていたが、上記のインタビューでそのときの様子を詳しく語っている。ここまで語ったのはこれが初めてではないだろうか。吉本は、学生のころから一貫して変わらない太宰ファンで、その訪問のときの印象が強かったという。

太宰の戯曲「春の枯葉」を学生芝居で上演するに際し、その許可を得るためであるが、二回目に訪ねてようやく屋台のうなぎ屋(若松屋)で会うことができた。そのときの会話をインタビューから拾うと次のようになる。

「太宰さんですか」
「そうだ」
「学生芝居なんだけど『春の枯葉』を上演したい。お断りしなければと思って来ました。お礼もろくに出せないけど許して欲しい」
「学校は面白いか」
「ちっとも面白くない」
「そうか。俺も小説を読んでもちっとも面白くない。小説なんて最初の二、三行読めばすぐわかっちゃうんだから。面白い作家なんていねえや」「俺がおまえだったら、闇の担ぎ屋をやるな」

「太宰さん、気持ちは、重たくはないんですか」
「俺は今でも重たいさ」

「おまえ、男の本質はなんだか知っているか」
「いや、わかりません」
「それは、マザー・シップってことだよ」

 (「春の枯葉」の中で歌われる流行歌の〈あなたじゃないのよ あなたじゃない あなたを待っていたのじゃない〉について)「(あなた)というのはアメリカのことをいってるんだよ」

(ヒゲを剃らずに放りっぱなしにしている吉本に)「おまえ、無精ヒゲを剃れ」

以上が、会話としてかっこ書きにされているすべてである。

玉川上水沿い 「千草」跡付近 「千草」跡説明パネル 上記の小さな広場からさらに西へ歩き、三鷹駅の手前二本目を左折し、本町通りに入るとまもなく、右手のビルの植え込みに三枚目の写真の金属プレートがある(二枚目の写真の左に小さく光っている)。太宰が晩年、執筆に利用していた小料理屋「千草」のあったところである。(二枚目の写真は本町通に入ってからふり返って撮ったもので、突き当たりが玉川上水である。)

太宰は、吉本が訪ねたとき、途中、うなぎ屋からなじみの飲み屋に移っているが、二人はかなりの時間一緒だったようである(他の人もいたようであるが)。そういったことや会話の内容から、太宰は吉本を気に入ったのではないだろうかと想像してしまった。「学校は面白いか」と聞いたときの「ちっとも面白くない」という答えが太宰の気分に合ったように想えるからである。

吉本は、そう答えた理由を、あちこちで書いているように戦争中は軍国少年であり、「勝手に戦争を始めて勝手に終わりやがって、こっちは一生懸命やったんだという思いがあったから、世の中に対してニヒルというか、やけっぱちの状態だった」からと語っているが、そういった心の状態が感覚の鋭い太宰に伝わったのであろうか。

さらに、「戦争に負けて、僕らは勝手に放り出された感じだったから、戦争の影響が深刻に残っていた。太宰はそれを軽みに変えていた。市民にとっては悪であるということをみんなひっくり返している。常識をひっくり返す。戦中も戦後の混乱期にも、考えたうえでのデガダンス、無頼なんだなと感じました。」と語っているが、太宰の独特の感性を吉本もまた鋭く感じ取っている。

野川家跡 野川家跡説明パネル 太宰治文学サロン 伊勢元酒店跡説明パネル 「千草」跡を右に見てほんのちょっと進むと、一枚目の写真のように左手の永塚葬儀社の塀に、二枚目の写真の野川家跡の説明パネルが張り付けられている。野川家は山崎富栄の下宿先で、富栄の部屋でも執筆していた。ちょうど「千草」のはす向かいであった。

一枚目の写真の右の通りが本町通りで、南へまっすぐに延びている。ここを南へしばらく歩くと、四差路の左角に三枚目の写真の太宰治文学サロンがある。そんなに広くはないが、太宰の資料や写真が展示されている。じつは、ここで、上記の野川家跡の説明パネルの存在を教えてもらった。

この出入口のわきの植え込みのところに、四枚目の写真の伊勢元酒店跡の説明パネル(三枚目の写真の右端に光っている)が立っている。この文学サロンのある所が太宰の一家が利用していた酒店であったとのこと。説明パネルにある地図を見ると、吉本が太宰に会ったうなぎ若松屋跡がこの近くにある。

吉本がもっとも印象に残ったという太宰の上記の「マザー・シップ」という言葉について、「母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。この人にしか言えない言葉だと思いました。考えている人なんだなと、ものすごく感心しました。」と語っている。同じころ別のインタビュー(「ユリイカ」)で吉本は「だからお前少しヒゲでも剃ってちゃんとしろ」といわれたと話しているが、吉本の訪問でこの有名な一言(マザー・シップ)が引き出されたといってもよく、そう考えると太宰も吉本になにか言い得ぬものを感じ取っていたのかもしれない。

続いて、「軽い人というよりも、軽くできる人だったじゃないかと思います。それができたのは、男というのは要するに男らしいとかそういうのじゃないんだよっていうのをよく知っていて、そういうところで生きていた人だったからだと思いますね。」(「ユリイカ」)と語っているが、上記の一言について吉本60年後の感想である。

ところで、吉本は、いつ太宰に会いにいったのだろうかと調べたら、昭和22年(1947)7月ころらしい。吉本23歳。太宰38歳、その死の前年である。

心中を知ったときの気持ちを聞かれた吉本は、次のように答えている。

「見事というと怒られちゃうが、太宰さんにしたら成功でしょう。何回か失敗もしているから。最後は成し遂げたという感じが、僕と友人の奥野健男(文芸評論家)にはあった。心中が伝えられた後、学校の近くの大岡山の飲み屋で二人だけの追悼会をやった。本気で太宰をわかっているって言えるのは俺とお前だけだ、と言いながら。」(この後、はじめに引用した「心中について、・・・」が続く)

本当にわかっているのは自分だけという思いは、思い入れの程度をあらわしているとはいえ、同時代を生きた人にそういう思いをできたのは稀少な体験であると思う。
(続く)

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)
「ユリイカ」9月号 第40巻第10号 2008年(青土社)
「現代詩手帳」1972年8月臨時増刊(思潮社)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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