東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三宅坂(2)

2011年09月03日 | 坂道

三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 半蔵門前から三宅坂の西側の歩道を下るが、こちらの歩道を歩くのははじめてである。堀側よりもゆったりとして歩きやすく、おまけに歩く人も少ない。鍋割坂への入り口をすぎると、まもなく、国立劇場である。

三宅坂の坂上は、半蔵門前としてきたが、このあたりという解説がある(石川や千代田区の説明)。国立劇場から北側はほとんど平坦であるので、こちらがたぶん正解だろうが、半蔵門前の方がきりがよい。

尾張屋板江戸切絵図(麹町永田町外桜田絵図)を見ると、このあたりは、三宅邸の北で、松平兵部大輔の屋敷である。近江屋板も同様である。明治地図では、このあたりは隼町で、陸軍第一師団管理の東京衛戌(えいじゅ)病院があった。

戦後、この国立劇場のあたりの台地には、アメリカ軍用宿舎が並び建っていたという(石川)。

三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 三宅坂上 国立劇場をすぎると緩やかな下りとなって、最高裁判所前に至る。このあたりは石垣などがあって散歩の雰囲気ができているが、内堀通りの車の往来がやはり騒がしく、差し引きゼロといった感じである。

昭和31年の23区地図を見ると、この隼町のあたりには何もない。昭和41年(1966)に国立劇場、昭和49年(1974)に最高裁判所が竣工している。

この最高裁判所の建物は、三宅坂の堀側の歩道から見ると、その全体がよくわかるが、石をむやみにたくさん使ったごつごつとしたもので、異な感じがし、あまり好きになれない。なんか外形だけ威厳を持たせようとしたところという印象を受ける。

三宅坂中腹 三宅坂中腹 三宅坂中腹 渡辺崋山誕生地の標識 最高裁判所の前を下ると、前方南側に先ほど歩いてきた坂下方面が見え、右に青山通りが西へ延びている。この角を右折すると異な一角がある。区立三宅坂小公園というらしいが、階段を上ったちょっと高台となったところに「平和女人像」が台座の上に建っている(下二枚目の写真)。

右の写真のように、その像の裏手に渡辺崋山誕生地の標識がある(下二枚目の写真に像の後に白く写っている)。三宅坂の由来となった三河田原藩主三宅家の上屋敷は、いまの最高裁判所のところにあったが、寛政5年(1793)、この邸内にあった長屋で生まれたとある。文人画家、蘭学者として有名で、麹町で塾を開いていた高野長英らと蘭学研究をはじめたとあるが、高野長英の塾があったのは、この近くの貝坂である。

天保10年(1839)、幕府の保守派として悪名高い目付鳥居耀蔵らによるでっち上げである「蛮社の獄」に連座し、在所での永蟄居処分を受けたが、その後の風聞などがもとで、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、田原の池ノ原屋敷の納屋にて切腹した(wikipedia)。

三宅坂中腹 平和女人像 平和女人像の台座裏面 小公園の「平和女人像」は、二枚目の写真のように、最高裁判所を背にして建っているが、右の写真のように、日本電報通信社(電通)が広告記念像として昭和25年(1950)に建立したものである。「広告先覚者」の名として多数の人の名が刻まれているが、それらの名は、ホームページ「東京都千代田区の歴史」にのっている。

ところで、「平和女人像」のところには、戦前まで、寺内正毅元帥の銅像が建っていたという(石川)。

下左の写真は、1933(昭和8年)博文館発行の「大東京写真案内」(復刻版)にある三宅坂付近である。市電の軌道が青山通りの方に延びているが、その右に、馬に乗った人物の銅像が見える。これが寺内正毅の銅像と思われる。その後ろの現在、最高裁判所のあるあたりが陸軍の航空本部であった。

このあたりは、明治中頃から陸軍省や参謀本部のあったところで、三宅坂の地名は、陸軍省や参謀本部の枕詞のように使われてきた。

下右の地図は、明治42年6月森林太郎(森鷗外)立案の東京方眼図(坂崎重盛『一葉からはじめる東京町歩き』の付録)の一部であるが、ちょうど銅像のある青山通りの南側一帯は、陸軍の中枢で、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣邸などがあったことがわかる。2・26事件の時、決起した青年将校は、このあたりを占拠した。

戦前の三宅坂付近 三宅坂周囲の明治地図 上記の「大東京写真案内」にある三宅坂付近の写真の説明を次に掲げる。

「桜田門を過ぎて間もなく、道は爪先上りの名も涼しげな青葉通り、この辺りが名にし負ふ陸軍首脳部の割拠する三宅坂で、写真正面が航空本部、軌道を挟んで手前、遠くは猛勇加藤清正公、近くは果断井伊大老の邸跡にあるのが、これまた昭和の名将連の屯(たむろ)する参謀本部である。」

当時は名将連などといっているが、実は愚将連といった方が実態にあっていた。

陸軍省や参謀本部は旧井伊邸跡につくられたが、いまは跡形もない。寺内の銅像は、どうなったかわからないが、戦後、現在のような「平和女人像」に代わった。三宅坂一帯は、戦後、あったことをなかったように見せかける隠蔽が行われたように思えてくる。存在したことが存在しなかったようになったのである。このことは、三宅坂から憲政記念館のある公園へ行くとよりいっそう感じる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
北島正元「日本の歴史18 幕藩制の苦悶」(中公文庫)

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