富坂を下り途中左折し北へ進むと、やがて突き当たるが、その両側でほぼまっすぐに上下するのが掘坂である。富坂とちょうど平行な位置にある。坂の北側が工事中で、白い壁がいかにも工事中の感じにさせる。そのためか、坂がちょっと荒れている。以前来たときはもう少し落ち着いた感じであった。坂下に下ると、突き当たりであるが、裏道が南北に延びている。坂を上るが、下側で勾配がちょっときつめである。坂上側に掘坂の説明板が立っており、次の説明がある。
『掘坂(宮内坂・源三坂) 小石川二丁目3と21の間
「堀坂は中富坂町の西より東の方。即ち餌差(えさし)町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に"ほりさか"と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三(げんぞう)の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
坂下に"こんにゃくえんま"の伝説で名高い「源覚寺」がある。』
尾張屋板江戸切絵図には、富坂の北に、ほり坂、とあり、坂北側に掘内蔵助の屋敷がある。坂南側は、坂下から小石川下富坂町、小石川中富坂町、小石川上富坂町となっている。坂下に善雄寺、その北隣に源覚寺がある。近江屋板も同じで、△ホリサカ、とある。富坂から北へ三本の道が延び、その先に堀坂があるが、これはいまも同じで、このあたりの道筋は江戸から続くものである。
『御府内備考』の小石川の総説に次のようにある。
「源三坂は同所より源覚寺といへる浄土宗の寺のすぐ下る坂をいふ、此處の名主鎌田源三といへるものゝ宅あればなり、昔は宮内坂ともいへり、その故は堀左衛門督の一属なる宮内といへる人の屋鋪、此處にありしかは其頃かくいへりと、寛文の江戸圖を見るに堀氏の人こゝにおるよし也、今も堀氏の屋敷あるは昔のまゝなるべし、【改選江戸志】」
坂名を古い順に並べると、宮内坂、源三坂、堀坂となる。横関によれば、坂北側には堀家が代々住んでいて、坂の普請を一手に引き受け、堀宮内の名から宮内坂とよばれていたが、その後、名主が自らの名をつけ源三坂となった。文政五年(1822)ころ坂普請が終わると、堀家は、坂の上下二箇所に「堀坂」と刻んだ石標を自ら建てた。先祖の名にちなむ宮内坂が、いつの間にか、他の坂名になっていたので、坂の修復工事完成の機会に、今度は「堀坂」というはっきりした名前にして標示したということらしい。このように、江戸時代に、自分の名を坂名にし、その名を強いるなどということは全く珍しいことであったという。
人名のついた坂の名は、その坂に関係の深い人の徳望、叡智、武勇、親切などにあこがれて、民衆が自然に声を合わせて、その坂の名としたのであって、自分で自分の名を、自分の屋敷のそばの坂に命名したのではない、と横関は強調している。横関は、江戸の坂は、江戸の庶民、江戸っ子が名前をつけたとするので、それからいうと、この坂はかなり特殊な例なのであろう。
現在、坂上側に、左の写真のように、石標が立っている。石標に刻まれた文字のうち、「さ」の字ははっきりしているが、他の字がちょっとわからない。「東京23区の坂道」に、この石標の写真があるが、それを見ると、「ほりざか」と読めるようである。この写真を見てから、左の写真を見ると、「ほ」が見えるような気がしてくる。これが、堀家が文政五年ころに建てたという石標なのであろう。
横関に、昭和30年代と思われる坂下からの写真がのっているが、いまと比べると、もっと風情のある坂だったことがわかる。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)