東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

六角坂

2011年03月08日 | 坂道

富坂上から北へ延びる道 上富坂教会 上富坂教会 六角坂上 堀坂上の突き当たりを右折する。この道は富坂上から北へまっすぐに延びる道で、ここを少し歩くと、上富坂教会前のT字路で、教会の前を過ぎると、やがて六角坂の坂上に至る。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、堀坂上を右折し、北へ進んだところに小石川上富坂町があり、このあたりがいまの教会のあたりであろうか。 さらに進むと、左側(西)に六角越前守の屋敷がある。坂名はこれにちなむと思われるが、坂名はのっていない。近江屋板にはちゃんと、△六カクサカ、とある。

六角坂上 六角坂上 六角坂途中 六角坂は中程度の勾配でまっすぐに下り、下側で右に大きく曲がってから東へまっすぐに下っている。距離はさほどないが、下側でほぼ直角に曲がる点が特徴的である。

坂下側に説明板が立っているが、車道側に坂名、その裏の歩道側に説明を記した文京区でよく見るタイプのもので、次の説明がある。

「六角坂(ろっかくざか)
 六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
 『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。」

六角坂途中 六角坂説明板 六角坂下側 六角坂下側 横関に「坂の修繕と堀坂」という一章がある。それによると、江戸時代、大火、地震、大暴風雨などで坂が破損し、坂を修繕する必要があるとき、その分担が決められており、それを"持"(もち)とよび、誰が分担するかで、町方持、武家持、寺方持、大名の一手持などといった。

たとえば、西富坂(富坂)は水戸邸のそばの坂なので水戸家の一手持、安藤坂は安藤邸と町方の分担持、大日坂は久世邸と竜興寺と妙足院の分担持、前回の堀坂は堀内蔵助の一手持であったという。この六角坂は武家持であったとあるから、六角邸やその近くの武家の持であったのであろう。

六角坂下側 六角坂下側 六角坂下 六角坂下 曲がってからは緩やかに坂下へと下っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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