団平坂上から公園のわきを通って春日通りへ出て、通りを西側へ横断し、その近くから通りの裏道に入る。南東方向へ進むと、やがて釈迦坂の坂上に至る。ちょうど徳雲寺の西側裏手である。むかしからの坂なのであろうか、中腹から下側で二度ほど大きく曲がっている。勾配は中腹から上側でちょっときつめである。
石垣風の壁が両わきに続いている。坂下側はまっすぐに下っているが、ちょうど丸の内線と平行になっている。
この坂を通ると、すれ違うのはいつも老人である。前回、ここを上って帰途についたが、そのときもそうだった。このような道を知っているのはこの土地の老人だけということなのであろうか。
「釈迦坂 文京区小日向4-4 徳雲寺裏
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。
文京区教育委員会 平成14年3月」
尾張屋板江戸切絵図を見ると、徳雲寺の西側に道があるがここであろうか。近江屋板にも同じ道筋があり、坂マーク△がある。
徳雲寺は夏目漱石の菩提寺であるという。漱石は小説『門』にあるように青年期に禅門に心を寄せ、鎌倉の円覚寺に参禅したことがあり、葬儀は円覚寺山主の釈宗演の引導によってこの寺で執り行われたとのこと(石川)。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)