ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

白耳花 その1

2019-11-04 | 11~12歳
昨年まで、ガーデンシクラメンを育てていた。原種に近く、外で夏越しし寒さにも耐える。鉢植えなのにほぼ放置で、けれどちゃんと自分で休眠したり芽を出したりしていた。そのすごさに気づかぬまま、私は「お〜いつのまにか葉っぱが茂っとる」などと驚いたり、花が咲いたと無邪気に喜んだりしていた。

ところが。今年は待てど暮らせど葉が出てこない。天候がおかしかったから遅いのだと思いたいが、もうどこでも開花した株が売られている。うちの子は、どうしたんだろう。

わずかに紫がかる深い赤で、白で縁取りされた花弁。普通のシクラメンを思い浮かればあまりにも小さなミニチュアのようなのに、いっちょまえに同じ形なのが(こっちが原種寄りだけど)本当にかわいいものだ。花びらの白い縁や形がアリエスの耳のよう。それが見られないとなると途端に惜しまれてならず、アリエスの姿と共に眼前から消えたようにも感じてしまい、変に焦る気持ちになった。立ち寄ったホームセンターで何となく見て回るも、うちのがいいしピンともこない。帰ろうかなとしていた時、真っ白なガーデンシクラメンに目を止めた。

市場には数多くの園芸種が出回り、育種家がいて登録商標がある。気を引くような名前が付けられ、大手や有名園芸店から出荷したものは誇らしげにタグがついていたりもする。その時もそういったのが大量に並べられていたのだが、か細かったり(売り場での世話の問題もあるかもしれないが)元気がなかったり。最小の投資で最大の利益を生むためには、土は購入されるまでもてばいい、鉢もできるだけ小さくする。まあそんなもんだろう。

ところがその一画の数鉢だけ、株の様子が違うものがあった。ラベルなし、名前もないし出荷元も分からない量産品だが、葉も茎も、何だかみずみずしい。真っ白な花はアリエスを思わずにはいられなかった。それに、違う色にして家のが咲くのも待てばいいかな。

翌日、鉢に植えようと株をポットから出してみれば、生き生きしているのも頷けた。これまでのポット苗では見たこともないような、ふかふかの土に植えられていたのだ。おかげで丈夫な根が回っている。皆が望む大きさに調整するための肥料も乗っかっていない。どこかの真摯な人が、ノーラベルの小さな植物を正直に生かしたのだなと思うと、感動してしまった。その思いを引き継いで、大切に育てよう。









2019-11-03 | 11~12歳
庭を作り直して、かれこれ2年。歳をとってもアリエスが安全に遊べるようにと考えたものだったが、それには間に合わなかった。今はもっぱら、私が植物と小さな生き物たちを観察して家にいる限りの時間を過ごす場所になっている。

当初からお世話になっている設計・監督の会社と担当の庭師さんがあり、シーズンごとに手入れをしてもらっている。低木や草花はこちらで何とかしているが、高木の剪定等や全体の様子など、プロならではの内容が少なくない。

私の庭師さん歴は長い。昔ながらの住宅地のことで、育った家はことに庭が広かったため、物心ついた頃には庭師さんの作業を日がな一日眺めていたものだった。そうして結構多くの庭師さんに出会った。その中でも、現在の庭師さんは別格。とはいえ庭づくりは大勢だったが、手入れはひとり+監督会社の担当の人。それで1日で芝刈りから剪定、草取りまで終わってしまう。

作業が終わると、余人と明らかに違うことが分かる。木々が、庭が、本当に気持ちよさそうにするのだ。風が抜け通り、枝が軽やかに揺れて、生き生きとする。そして、合間合間にササッと掃除しながら進めるので「しまい」もきれいで忘れ物がない。終始静かにさっぱりと進行する。技術系の人はそういう言い方をすると思うが、まさしく「手がきれい」なのだ。

それはもちろん仕事であって、早く言えば腕がいい、というだけのことではあるんだけど、そこには植えた植物と約束した義務を果たすような、覚悟のようなものが感じられる。物言わぬ生命を、ヒトの都合によりここに連れてきた責任。ここでなんとか育ってくれよ、という願い。生命への敬意、畏れ、いたわりのようなもの。

必要なことを抜かりなくやり、手を残さない。仕上がりは対象が本来あるべきであった状態に。自分の仕事も生活もそうありたいと思うし、アリエスにそうしてやれていたかなと、今日も緑を見ながら考える。

アリエスと災害

2019-10-13 | 11~12歳
昨晩は暴力的とも感じられるような風雨で、アリエスの体があったらするであろう準備を思い浮かべて過ごしました。まだ川の氾濫の危険が残っているし既に大変な状況に陥っている人々もおられ、早く平常に帰するのを祈るばかりです。

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犬を家族として暮らす人は皆そうだろうが、私達も、アリエスを災害から守り抜くことは常に考えてきた。体が大きく、いざという時は自分で移動してもらわねばならないし、足腰が元気ならいいが、もし立ち上がれない時に起こったらどうするか。人の集まる避難所ではいろいろと難しい可能性もある。救助してもらうようなレベルになれば、連れて行けないなどというとんでもないことが起こり得る。さりとて自分はここに残るとか言い出せば、レスキューしてくれる人を困らせるだろう。大型犬と暮らす友人は以前、そうなったら自己責任で隠れて残ると言っていた。居るのが分かると迷惑をかけるからと。地球はヒトのためだけに整備し使われて、他種の生命が負わされる危険と運命について、システマティックに突き詰められたことは未だない。

いかんともしがたい突発的メガ災害を除くと、やはり普段の想定と準備に尽きる。どこまでいっても人智の及ばぬ想定外はあり得ると思う。その場合は臨機応変、一蓮托生と肚をくくるしかないが、考えつくことのできる厄災でアリエスの人生を損なわぬこと、それは全力で遂行したつもりだ。現代は、過去の時代より入手しやすい情報は大きな武器だ。

たとえばいつも通っていた河原なら、水面から遊ぶ土地までの距離や地形、生えている植物、いるはずの生物、堤防までの高さ、上流のどの辺りにどの程度降雨したらどれくらい遅れて水かさが増すか、ダムの放水があったらいつどうなるか、それらは頭に入れていた。公共のモニタリングシステムの数値をいつも見て自分なりに推移を分析し、自治体やニュースが呼びかけるよりも早いタイミングで、判断を下す練習をする。

そしてその情報に磨きをかけるには、その知識をしまった頭で、実際に調べるのが重要だと思っていた。いざという時を察知して迅速に動くために、自分の目がその距離をどう感じるか、どんな匂いと音なのか、明るければ暗ければ、それが有ったら無かったら。他の生き物の様子、季節の植物。空気と空で、できるだけ気象を予測する。直感と呼ぶ経験値の積み重ねをしておく訓練はとても役に立ったしおもしろくて、アリエスはきっと一瞬で、こんなふうに世界を把握しているのではないかなと思ったりもした。

こちら側の要素も大事だったな。アリエスは何に気を取られるか。気づきにくい危険は何か。頼れる基盤は持っているか。自分が使い物にならない状況の設定。自分のミスの傾向。連絡、移動、次善策。食べる飲む排泄する。日常生活動作を、どうしたら維持してやれるのか。

…とまあ、準備といっても限りない。助けになる道具を揃えて保管し、1ヶ所でなく分けておいたり、離れた避難先を確保したりも重要だった。リスクの内容によっては、父ちゃんとは別行動。どちらかが無事なら、まだなんとかできる確率が上がるかもしれない。

怖い思いをする生物ができるだけ出ないこと、そして何より、取り残される恐怖を誰も味わうことのないよう、祈って止まないのです。




墓守りのつとめ

2019-10-09 | 11~12歳
アリエスについて書かずに過ごしても、無言で、あるいは言葉に出してアリエスに話しかけながら日を送るのに変わりない。今は、見えないアリエスと一緒に過ごすというより、どこかのアリエスと常に繋がっているという感覚だ。

自分は、墓守りだ。もし犬の姿をしていれば、アリエスの墓の前にうずくまって、あるいは出かけてもまたいつのまにかそこに戻ってくる忠犬のように見えることだろう。アリエスの墓標を胸に、それを守って暮らしている。そしてそのまま促されるところまでか、許されるところまでかを、歩く。

私は望みどおりアリエスを今も守り、そしてアリエスは私達の守り神だ。毎日アリエスの話をし、アリエスに挨拶して出かけ、アリエスの家に帰る。時に泣き、姿の不在を惜しみながら、思い出に支えられながら。

元も子もない物言いだが、自分がどんなに良く生きても、それがアリエスの足しになるわけではない。何かの僥倖の原因にも、アリエスが戻ってくれるきっかけにもなれはしない。私の罪でも罰でもない自分自身の人生を、アリエスは歩んだのだから。

良くあろうとする心を対価にする下心を浅はかと知っていながら、良くあろうとすることでしか報われないだろうとも、どこかで思い込んでいる。それはアリエスが私にとって、とてつもない良きものであったからだろうかと思う。

盂蘭盆に

2019-08-14 | 11~12歳

アリエスの朝ごはん。卵、野菜と果物が定番。好きなおやつも欠かせない。水はかわいいお猪口に。アリエスのべろ入らないかー


お盆ですね。うちは毎年7月です。アリエスは普段からここにいるので特に招待はしませんが、ご先祖たちを迎えるのにお供え物をして、提灯を灯す。迎え火も焚きます。

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心は常時涙をこぼしている。いつもの生活をしながら、心でずうっと泣いてる。隙あらばたいしたきっかけもなく流出する涙をこらえて、容赦なくやってくる毎日に向かっている。

そんなふうに喪失に打たれて、人知れず泣いている人もいるだろうと思う。悲しみはとても個人的で、個人差があり、癒えてゆく過程も同じではない。

昔、窺い知れない苦しさや悲しみを描く小説を好んで読んだ。現実では気づかれずに流されていくそういった事柄を、小説家が拾い上げてくれて救われるから。真実を衝撃的に伝えて読者に問いかける方式よりも、作者自身が登場人物を慈しみ、優しい目で描き切る物語がよかった。どこかの慟哭の人にもそんな作者がいて、その思いをすくい取ってくれたらいいのにと思う。私にはできないことだけど、そんな思いもこめてこれを書いています。

すでにどれだけ頑張っているかしれないから、どう考えても大丈夫だという状況でない限り、人に「頑張って」と声をかけたことはない。でも今、涙の人に、頑張れ、頑張れと心をこめて言いたい。生活そのものさえフリーズした時期から、意味もなく自分に呟いていた単語。つまんない言葉しか浮かばないものだなとつくづく笑えたけど、歯をくいしばるくらいには使える。

お墓参り、花火、盆踊り。地上の祈りが、届くべきところへ確かに届くように。