あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

コメントに答えて

2013-01-31 20:47:15 | インポート

かけ算に関して書いたブログに、たくさんのコメントが寄せられています。さまざまな視点から、真摯に問題点をとらえ、意見や質問をいただいたことに感謝したいと思います。読んだ感想も含め、私の考えを改めてまとめることで、コメントに対する答えとさせていただきます。

コメントの中に、なぜ 1あたりの数×いくつ分 の考え方でなければならないのか という質問がありました。その理由は、その考え方でかけ算をとらえると、たし算やひき算とは異なる かけ算のイメージができ、子どもにとっても分かりやすく理解できるからです。また、割り算の理解にも、その考え方を活かすことができ、かけ算から割り算へと一貫した形で学習を進めることができるからです。かけ算や割り算の具体的な指導については、11月のブログに詳しく書きましたので、参考にしていただけたらと思います。 

コメントには、問題と思える 算数の教育内容や指導の実際について、いろんな事例の紹介がありました。指導内容や指導手順には細部までこだわりすぎたものや、不必要で子どもの理解の混乱を招くものがあることも確かです。指導の仕方によっては、手段が目的化してしまう場合もあるかもしれないと私も思います。こういったマイナス面の指摘だけではなく、中には、子どもたちが自由に発想し、さまざまな解決方法を見出す授業の取り組みも紹介されていました。子どもたちの思いや考えを大切にした授業は、理想的な授業でもあります。子どもの側に立って、指導内容や授業方法を工夫・改善している教師の授業や実践報告を、私自身も数多く見、目を通してきました。どれも、子どもの自由な考えや発想を大切にし、子ども同士が学び合う授業でした。

バツをつけられた子どもは、どんな気持ちを抱いたのでしょうか。バツになった理由を納得できたのでしょうか。

6×8 も 8×6 も計算上の答えは、確かに同じです。しかし、(1あたりの数<量>)×(いくつ分)の言葉の式にもどって考えると、それぞれの数字が異なった意味を持ってきます。担任は、その理解が不十分と考えてバツをつけたのだと想像しますが、記事とコメントではそこから問題点を指摘しています。一つ目は、言葉の式にとらわれているから順序にこだわりバツをつけたのではないか。二つ目は、順序にこだわることが数学的に正しいと言えるのか。三つ目は、順序のような細かい点にこだわってしまうから、手段が目的化してしまうような指導をしてしまい、子どもの自由な発想や考え方を奪ってしまうのではないか。

一つ目については、先にも書きましたが、言葉の式があることで子どもたちは、かけ算がどんな計算なのかをイメージすることができ、足し算や引き算とは異なるものだということに気づいていけるので、それにしたがって指導していくことは必要だと考えます。また、こういった指導が子どもたちの自由な発想を決して妨げるのではなく、むしろかけ算に対する理解を深め、考える楽しさを広げていく上でも有効であることを実感しています。ただ、大切なのは順序ではなく考え方なのですから、どうしてそう考えたのかと子どもの考えを聞いてみることが必要だったのではないかと思います。その上で、その子が納得できるような説明と配慮が、指導する側には求められるのではないかと思います。

二つ目については、私自身数学者でもなく数学が得意ではなかった方ですから、数学的に正しいかどうかの判断はできません。しかし、かけ算が、1あたりの数といくつ分の数の演算で成り立つ計算であるととらえることについては、間違っていないと思いますし、その理由についても先のブログで説明したつもりです。順序については、1あたりの数が 無数にある(いくつ分) ことで、かけ算が成り立つという考えにも立っていますので、必然的に1あたりの数が先にくると考えています。ただ 順序よりも、1あたりの数と いくつ分の数を 区分し、想定しながら、かけ算をとらえていくことの方が重要な点だとも考えています。

三つ目については、同感できるところとそうでないところがあります。学校の主役は子どもです。学校は、子どもが本来持っている豊かな感性や想像力(創造力)を伸ばし育む場所であって、それを妨げる場所であってはならないと思います。算数の学習の場においても同様です。細かい手順や約束事、行き過ぎた指導内容や指導によって、子どもの自由な発想や考えを束縛し奪ってしまうような側面があるのも事実だと思います。具体的な指導内容や指導法についても、教科書や指導書にあるから取り扱うのではなく、子どもにとって必要なものであり、分かりやすく、考えやすいものであるかを考えながら、指導していく努力が求められていると思います。学校五日制の中で多忙化する職場の中で、そういった努力を続けている教師をたくさん私は見てきました。子どもたちが自由に発想し、考えや解決方法を出し合う 授業も見てきました。バツをつけた教師だけではなく、こういった努力や取り組みをしている教師たちにも焦点をあて 学校の外からだけではなく、内側から見た 算数・数学の指導の現状にもふれてほしいと思いました。

子どもにとってどうなのかと考えることは、教育の内容や質を高めていく上で、大切な問いかけだと思います。寄せられたたくさんのコメントを通して、算数の指導内容をとらえなおし、これまでの授業を振り返りながら、反省点や課題もたくさん見出すことができましたことに、改めて感謝したいと思います。

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絵本 『光の旅 かげの旅』

2013-01-29 23:08:03 | インポート

以前、新聞の書評欄を読み、手にとって読んでみたいと思った絵本がありました。アン・ジョナスという人の書いた 『光の旅 かげの旅』という 本です。子どもたちが あっと驚く 絵本ということでしたが、私自身も 驚いた絵本でした。ストーリー的には、明け方に自分の家を出て 大きな町まで行き、夜にもどってくるという 単純なものなのですが、帰り道は 本の上下を逆にして 読み進めていくようになっているのです。しかも、色は白と黒のみの 文字通り 光とかげで表現され、行く時に見えていた風景と 帰りの時に見える風景が 上下が逆になるだけで 全く異なった風景になっていることに 驚かされるのです。 目で見る不思議な絵本であり、その意外性に感動的な驚きを感じてしまいます。子どもたちも、本を上下を変えるだけで、見える世界がちがってしまうのですから、驚いてしまうわけです。妻が、担任している子どもたちに この絵本を読み聞かせた時にも、同様な反応があったとのこと。それだけインパクトのある絵本だったようです。

それにしても、作者はどんなふうに絵本をつくっていったのでしょうか。ストーリーを最初に考え、それに合わせて 上下違和感のない場面を描いていったのでしょうか。その表現力に大きな魅力を感じます。他にどんな絵本があるのか、興味のあるところです。

立体絵本やしかけ絵本など、目で楽しみながら読む絵本もいいですね。想像力を視覚的に広げてくれるような気がします。

絵本の読み聞かせも、絵と言葉を通して 想像力を豊かに広げてくれます。

同時に、朗読だけで 想像力を広げていく 世界も、大切にしたいですね。言葉を通して、聞き手の心の中に物語の世界を目に見えるように再現していく営み。言葉に対する感性をとても豊かに広げてくれるような気がします。

※追伸  

かけ算について書いたブログに、コメントが寄せられています。次回のブログにその回答を書きたい思っています。

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小鳥のさえずり

2013-01-28 20:53:12 | インポート

最近 天気のよい穏やかな朝や夕方に、小鳥のさえずりが聞こえてきます。私の書斎にしている部屋の一画からにぎやかな声や動いている物音が聞こえて来るのです。

どうやら 外の通気口に住みついた小鳥のようです。体の小さなスズメの親子なのではないかと思います。一つのさえずりに応えるようにかわいいさえずりが聞こえ、まるで親子で語り合っているような感じがします。餌でも運んで来た時の会話なのでしょうか。

でも、不思議と夜になると声は聞こえず、かすかに動いている気配がするだけです。間借りしている身の上なので、遠慮しながら住みついているのかなと思ったりしているのですが、声が聞こえないと元気でいるのかどうか気になったりしてしまいます。家の北側に面した通気口なので、日も十分にあたらず、このごろの寒さは身にこたえるだろうなあと心配になります。無事に育ってくれることを祈ります。

家主としては、小鳥たちに永住権を保証したいと考えているのですが、どう伝えていいやら迷うところです。今は、そっと耳をすますことで、見守っていけたらと思っています。 

命あるものの 命の温もりを感じ うれしく思う このごろです。

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かけ算は 順序が違うと バツ ?

2013-01-26 22:50:55 | インポート

(1/25)付の朝日新聞社会面に、小学校のかけ算テストの結果を取り上げた記事がありました。見出しは「小学校のかけ算 えっ?  順序が違うと『バツ』」と書いてありました。その概要を紹介すると同時に、この記事に対する疑問点をまとめてみたいと思います。

取り上げられたテスト問題は、「8人に鉛筆をあげます。1人に6本ずつあげるには全部で何本いるでしょう。」という内容。東京都内の男性の娘が小学2年の時に、8×6=48 と書き、バツがついているのを見て驚き、このことをブログに書くと、「式の順序が正しくない」「かけ算に正しい順序などない」などと千件近いコメントが寄せられたそうです。

教科書会社の説明によると、かけ算は (一つ分の数) × (いくつ分) なので、(一人当たり6本) × (8人分) つまり 6×8 が正しく、教師が授業の参考にする「指導書」も、「立式で誤答が多いのが現状」などとして「正しい順序」を徹底するよう促している とのこと。さらに「正しい順序」の根拠は何なのかと尋ねると、文科省が教育内容の基準を示した「学習指導要領」の解説に「10×4は、10が4つ」などと書かれている。(一つ分の数) × (いくつ分)と順序を固定した方が、児童はかけ算の意味を習得しやすく、かけ算を教える際、順序を教えるのがいまは一般的だとのこと。

ところが文科省に問い合わせると、「正しい順序」を決めてはいないが、学校現場に裁量があり、コメントする立場にないという見解でした。

式の順序が逆だと間違いなのかどうかについて、東北大理学部数学科の黒木助教は、ナンセンスとの答え。鉛筆をトランプのように配れば「1巡あたり8本」×「6巡分」とも説明でき、バツにする根拠はないという。「算数には様々な解き方がある。先生は児童とのコミュニケーションを大事にしてほしい」。

小学校のPTA役員を務める作家の川端裕人さんは、小中学校長向けの専門誌に寄稿し「順序』の指導は、児童・生徒が数学の抽象世界に羽ばたくのを妨げているのではないか」と訴えた。

この問題は、41年前の朝日新聞にも記事がある。テストでバツがついた小学生の保護者が学校に抗議したという内容。これ対して京都大教授が次のような助言をした。「こどもの思考の飛躍、冒険は大切なことで、どんどん生かす指導をしてやらなくてはいけない。親が学校に対し、学習内容などについて発言するのは大いにけっこう。まず担任先生と率直に話し合って」 結びに書かれた記者の意見は、「(その助言が)41年を経た今も変わらぬ「正答」だろう」 とのこと。

…………

この記事を読んでまず第一に感じたのは、なぜバツを付けた教師の考えが書かれていないのだろう という疑問です。教科書会社や文科省、数学者、PTA役員には取材しながら、かんじんの指導教師のコメントがないのです。硬直化した教育現場に対する批判の思いがあったにせよ、当事者の考えを抜きにした 一方的な記事なのではないかと思いました。新聞の公正さは、どこにいってしまったのでしょうか。

記者は、かけ算の順序にこだわり指導することに、批判的な見解を持っているようですが、学校現場でかけ算がどう教えられているのか、その実情を知った上で、記事を書いてほしいと思いました。教育の仕事に関わった者の一人として、私にはバツを付けたのにはいくつかの理由があるからだと考えました。思いつくまま次に書き出します。

かけ算という計算に初めて子どもが出会うのが2年生です。足し算や引き算を学んできた子どもたちにとって、かけ算は未知の出会いとなります。5を10回足せば長い式の足し算になりますが、「×」を使えば 5×10 という簡単な式に表すことができるのです。どう このかけ算と子どもたちと感動的に出会わせることができるかと、教師は考えます。そのために、× の持つ意味を きちんと教え、どの子も考え方や計算の仕方が身に付けることができるよう教え方を工夫します。そういった取り組みについては、これまでも 教職員の研究会や組合の教育研究集会でたくさんの実践報告が積み重ねられているのです。

かけ算を (1あたりの数<量>)×(いくつ分)として表すのは、そのもの(1あたりの数の対象となるもの)が、どれも共通の属性として共通の数だけあり、それがいくつ分あるかが決まることで、かけ算が成り立つからです。問題文を例にすれば、1人にあげる鉛筆の数となる6本が、どの子にも等しくあげる共通の数であり、それを何人にあげるかは一定ではなく、この問題文ではたまたま8人になっているのだと考えることができます。つまり 1あたりの数が6となれば 6×( ) という式が成り立つことを意味します。いくつ分にあたる 3人にあげれば 6×3、100人にあげれば 6×100 の式となります。8×6 という式では、問題文は、「6人鉛筆をあげます。1人に8本ずつあげれば、全部で何本いるでしょう」 となります。

この考えをもとにすれば、6×0 と 0×6  の違いについても 説明することができます。6×0 が式となる問題は、「1人に6本ずつ鉛筆をあげたいのですが、あげる人が一人もいません。鉛筆は何本いりますか。」 となります。 0×6  については、「6人の子に、0本ずつ鉛筆をあげれば、全部で何本にいりますか。」 となります。しかし、この問題には無理があり、1あたりの数がどれにも共通して0になる問題設定でないと、子どもたちは納得できない面があります。そこで、1あたりの数が0になる 例えば へびの足の数などを例に、次のような問題文を設定します。「へびには足がありません。6匹のへびが集まれば足の数は全部で何本になるでしょう。」

答えが同じであっても、式にはこういったきちんとした意味があるということを知って、子どもたちは、かけ算の考え方を身につけていきます。そのことをきちんと理解した上で、計算上の操作では 6×8も 8×6も 同じ答えになることを 次の段階で 指導していくことになります。

どの子もかけ算の意味を理解し、確かな計算力を身につけて欲しい。そう願うからこそ、きちんと段階を踏み、積み重ねをしながら、教師は指導していきます。バツをつけたのは、かけ算の意味を理解する段階でのテスト問題だったからなのだと思います。問題に出てきた数字の順に立式してしまい、かけ算の意味を十分に理解していないと判断したからだと思うのです。

記事の中で、数学者の先生が、「1巡あたり8本」×「6巡分」で説明できるので、バツにする根拠がないと語っていますが、果たして子どもはそう考えたのでしょうか。1あたりの数×いくつ分の考え方に沿った考え方なので、そう考えて8×6 と書いたのであれば、私もバツは付けないと思います。では、かけ算の意味を 子どもたちに どう教えたらいいのでしょうか。順序を変えても答えは同じだという指導するのは簡単ですが、初めてかけ算に出会う子どもたちに その理由を どう納得いく形で 説明できるのか疑問です。授業の中では、さまざまな学習場面があり、その中で子どもたちはいろんな意見や考えを出し合いながら、かけ算の意味について一緒に考え、学んできたはずです。算数の楽しさや筋道だって考えることの面白さ、正しい答えや解決の方法を見つけた時の喜びを体感しながら、学んでほしい。教師たちの そういった目に見えない積み重ねがあった上での バツであったことを 理解してほしいと思います。

かけ算を学習した後に、子どもたちは割算を学びます。割算は、その答えの求め方は、2通りに区分できます。一つは、答えが「1あたりの数」を求める場合であり、もう一つは「いくつ分」を求める場合です。前者については、「48本の鉛筆を8人に同じ数ずつ分けます。1人分は何本になるでしょうか」。後者については、「48本の鉛筆があります。一人に6本ずつ分けてあげるとすれば、何人に分けることができるでしょうか」という 問題文になります。かけ算を(1あたりの数)×(いくつ分)と理解した力が、割算の考え方や答えの求め方に発展的に結びついていくのです。かけ算の順序は、ただの順序ではなく、かけ算の意味を理解するだけでなく、次に学ぶ割算の理解にも発展的につながっているのです。記者は、そのことを理解した上で、たかが順序と言っているのでしょうか。

記事の中で、PTAの役員も務める川端さんが、「算数には様々な解き方がある。先生は児童とのコミュニケーションを大事にしてほしい」と訴えていますが、算数の授業風景をご覧になったことがあるのでしょうか。子どもたちが、多様な解決方法を考え、話し合う活動場面は、どこの学校でも共通に取り入れられ、大切にされている授業風景の一コマです。

バツを付けたということだけで、教育現場が硬直し、柔軟性に欠けていると考えるのは余りにも短絡的で一方的な見方なのではないかと思います。

記事では、かって同様な問題があったことを指摘し、そこで語られた京大教授の助言を取り上げ、それがこの問題の正答であると結んでいます。しかし、決して学校現場は、こどもの思考の飛躍、冒険を 生かす指導をしていないわけではなく、子どもの自由で柔軟な発想や考え方を大切にした指導を実践しているのです。親が学校に対し、学習内容などについて発言するのを拒否しているわけではなく、むしろ教育内容に対して親の側から評価してもらい、要望や提言を積極的に発信してもらうよう努めているのです。また、親と担任の先生とが率直に話し合い、確かな信頼関係もとで 子どもたちのよりよい成長のために共にできることを考え実践する努力も続けています。

41年を経た今も、多くの教師たちが変わらぬ努力を続けていることを知ってほしいのです。

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講演会「弱さを絆に」

2013-01-24 19:15:22 | インポート

先日、「仙台いのちの電話」主催の公開講演会に出かけてきました。講師は、北海道浦河町にある「ベテルの家」の設立に関わり、統合失調症など心の病に苦しむ人たちと活動を共にしてきた 向谷地(むかいやち) 生良(いくよし) さんです。浦河赤十字病院のソーシャルワーカーであり、現在は北海道医療大学教授でもある方です。

壇上には、向谷地さんの他に、心の病を克服した女性と現在心の病を抱えている3名(女性1名、男性2名)も登壇し、この4名との対話を中心とした講演内容でした。

「ベテルの家」では、心の病を持った人々が一緒に生活を共にしながら、自分の病と正面から 向き合い その中で分かったこと・気づいたこと・対処の方法等を 相互に伝え合い 学び合う中で 自分の力で 病を克服していくという活動に 取り組んでいます。

病と自分が向き合うための方法として 実践されているのが、当事者研究という取り組みです。これまで、心の病は専門家の治療や援助によって回復するという考え方が当たり前のこととされてきました。この考え方に対し、当事者研究という取り組みでは、病にかかっている当事者自身が専門家や家族に自分の抱えている苦労や困難を丸投げせず、自ら病と向き合い対処の仕方や解決の方法を仲間や専門家の援助を受けながら模索し、生活実践につなげていくという活動です。具体的には、次のような段階を踏みながら取り組んでいるようです。

①日常生活上の出来事、困りごとを素材にしてテーマを考える   ②どんな苦労があったかプロフィールにしてまとめる ③それに対して自分で病名をつける ④図などをもとに 出来事や苦労が起きるパターンやしくみ・意味を考える ⑤困った時の自分の助け方・苦労の解消策を考え、必要によって場面をつくり練習する ⑥生活の場面で「実験」して効果を確かめる ⑥研究成果の公開と共有

講演を聞きながら感じたのは、現在病を抱えている方の明るさでした。対人恐怖症や他人との間に心の壁をつくってしまう自分のことを 客観的にユーモアを交えて語る姿に、驚きさえ感じました。

心は健康で強くなければならない。無力感にとらわれていては前に進めない。こういった常識的な考え方にとらわれてしまうと、ますます自分を防御するために心を閉じてしまうという反作用が生じるのかもしれません。自分の弱さを認め、そんな自分を肯定する。無力な自分を意識すること自体が、前向きになっている証拠なのかもしれません。当事者研究では、自分の弱さをみんなの前で公開します。弱さを抱え苦労していることが、人をなぐさめ励ます力に変わり、さらには 人と人とをつなげ、謙虚にさせ、新しい可能性を生み出す という考えに基づいているからです。

自分の弱さを認め 公開し お互いに あるがままの思いを伝え合うことで、仲間と一緒に弱さを共有し、そこから解決策を見出していくという方向性を感じました。

肩を張らず 弱い自分を 受け入れ 認めるところから 本当の心が見えてくるのかもしれません。自分の心と どう 向き合い どう 上手につきあっていくか、それは 人間としての 永遠の課題なのかもしれません。

毎年、べてるの家が主催して 当事者研究についての発表会や 幻覚・妄想の発表会が 開催されているそうです。今年は、8月末に北海道・浦河町で開催されるとのこと(昨年は、福島で開催されたそうです)。 北海道旅行を兼ねて 是非出かけてみようかなとも 思っています。

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