あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

ブログの引っ越し

2014-11-04 18:04:35 | インポート

早いもので、今年も 残すところ2ケ月となりました。

栗駒山も雪化粧をし、紅葉も山から平地へと移り変わってきているようです。晩秋から冬へと、季節の装いも日増しに変わっていくことでしょう。

秋が過ぎ去る前に、心に残る秋を写真に収めたいと思っています。ブログの中でも紹介できたらと考えています。

このブログも、OCNのサービスが11月いっぱいで終了となるそうですので、gooブログの方へ引っ越すことにしました。

この機会に、これまで書いてきたことを改めて振り返り、原点にもどってこれまでの内容を検討しながら、再出発をしたいと考えています。

時の流れに対応しながらも、改めて 自分の内にあって 変わるべきものと変わらないものを 問い直し、新たな一歩を刻んでいけたらと思います。

引っ越しても、gooブログには自動的にたどり着くことができるそうです。

継続して目をとおしていただけるならば、幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「蜩ノ記」を見て

2014-10-22 21:20:04 | インポート

かって、映画「壬生義士伝」を見て深い感動を覚えたのを思い出しながら、映画を見ました。原作のイメージをさらに具体化する映像にふれることを期待しての鑑賞でした。

しかし、今回映画を見ての実感は、やや期待はずれでした。私が抱いた原作のイメージとはどこか重なり合うものが欠けていたように感じたからです。

映画が、登場人物のセリフによって進行する説明的な印象を受けたせいでしょうか。原作に忠実であろうとすれば、セリフはかなり重要な要素なのですが、視覚的な映像としての表現(セリフで表現できない部分)が、どこか説明的な印象を受けました。

映像としての動的な要素が生かされず一枚の写真のような印象があったからなのでしょうか。セリフのない部分での登場人物の表情や姿に込められた思い、景色の変化は時の経過を表すだけで、その中に投影された登場人物の心情を感じ取ることがあまりできませんでした。

原作を表現するのに、映画にはさまざまな制約があります。どのセリフや場面を切り取り、組み合わせながら、主題に沿った物語を映像化していくか、それが監督と台本家の腕の見せ所なのでしょう。

映画「壬生義士伝」で感じたのは、原作の感動と映画の感動とが共鳴したような印象でした。原作も、映画も、どちらも同様に心に残る作品だったと思います。

「蜩ノ記」のエンディングの場面では、死地に(自刃の場に)赴く主人公の後ろ姿を映し続けていました。

私のイメージでは、そこから切腹の場に場面が切り替わり、一斉に鳴く蜩の声に耳を傾け、青い空と木々の緑とそよぐ風を心地よく感じながら、自刃しようとする 主人公の納得した顔がアップで映し出されます。そこでカメラが切り替わり、山の稜線と青空が映し出され、蜩が一斉に鳴く中で終わるという映像が浮かびます。

映画そのものは、それなりに良質な作品だと思うのですが、原作と同質な感動を得るには何かひとつ、共感し感動できるもののピースが欠けているような印象がありました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レ・フレールの心に残るコンサート

2014-09-27 00:41:06 | インポート

26日に、仙台いのちの電話のチャリティコンサートに出かけてきました。レ・フレールという兄弟デュオ(斎藤守也・斎藤圭土)によるピアノコンサートでした。息の合った二人のすばらしい演奏の迫力に圧倒され、それでいて繊細で心に届く響きに引き込まれた 心に残るコンサートでした。改めてピアノのもつ表現力の豊かさにふれ、レ・フレールのファンになりました。

確かな演奏技術に裏打ちされているからこそ、あれだけ心に残る演奏ができたのだと思いました。曲の演奏の途中に入る会場からのかけ声や拍手、二度のアンコールに応えての演奏の最後には会場の人たちが総立ちで拍手を送りました。音楽に疎い私も、演奏に心を奪われ、思わず足でリズムをとり、拍手をしていました。心の内にまで快く響く演奏だったからなのだと思います。

来年の2月21日(土)には、仙台電力ホールでニューアルバム発売記念ライブが開催される予定とのこと。是非またライブを聞く機会を得たいと思いました。ナマの演奏のすばらしさにふれたことで、また同様の感動を味わいたいものだと思います。

インターネットでレ・フレールを検索すると、ユーチューブでライブでの演奏の様子を視聴することができるようです。是非、その演奏ぶりにふれてみてはいかがでしょうか。

音楽のもつ魅力を改めて体感できたひとときでした。その機会を与えてくれたレ・フレールに心から感謝したいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロゴセラピー講演会に参加して

2014-09-22 11:06:15 | インポート

20日に、仙台へ出かけてきました。日本ロゴセラピスト協会事務局長の草野智洋氏を講師に迎えての ロゴセラピー講演会に参加するためです。

案内パンフレットには、ロゴセラピーについて次のように紹介されていました。

『「夜と霧」の著者、V.E.フランクルによって創始された「意味(ロゴス)」を中心として進められる心理療法。ロゴセラピーでは、どのように生きることが意味のあることなのか、今いる状況での課題は何なのか、人生に意味を見出せないで悩んでいる人たちと一緒に、意味のある生き方を探し、癒しの可能性を求めます。「いかなる状況にあっても人生に意味がある、人生にイエスと言うことができる」と考えます。』

フランクルの考え方から自分なりに学んだことを、改めて確かめ・考えなおしてみたいと考え講演会に参加しました。断片的な知識が、ロゴセラピーの考え方の中に整理・統合されていくような感じがし、少しだけ以前よりフランクルの考えが理解できるような気がしました。

講演の中で印象に残った言葉をいくつか書き出し、併せて自分の思いや考えもまとめてみたいと思います。

・ロゴセラピーは、人を変える「技術」ではなく、「生き方」としてあらわれてくるもの。セラピスト自身がロゴセラピー(生きる意味を見出し行動すること)を生きるということ。

 他人ではなく自らの生き方に関わる考え方であるということ。行動の主体は自分であり、その生き方の内にあらわれてくるものであるということ。人生の主役は、その人自身なのですから。

・どんな状況でも人は生きる意味を見出すことができる。

 フランクルは、ユダヤ人であるという理由だけで過酷な運命を生きることになります。家族との別離、死が隣り合わせの収容所生活。番号で呼ばれ、寒さと飢えの中で、強制労働にかりだされる日々。人間であることを否定され、多くの仲間が死んでいく中に在っても、人間としての尊厳を失わずに生きぬいたという事実の上で、語られる言葉です。どんな状況でも と言い切れるところに 体験に基づく言葉のずっしりとした重みを感じます。

・人生の意味を問うのではなく、私たちは人生から問われている存在である。

 ※ 自分ではなくそれ以外のものから、求められ必要とされている。今あなたにできることは何か、あなたがすべきことは何か。その問いの答えを自分で探し、選び、責任をもって行動で応えていく。

 人生の意味を問うことは、自分の世界から発せられた問いであり、それはこだまのように自らに返って来る問いなのかもしれません。自分の世界にいる限り、その問いは繰り返され続けることになるのでしょう。しかし自分から切り離したところに立つならば見方が変わり、人生そのものが自らに語りかける問いになってくるのだと思います。人生そのものがその主役である自分の登場を待っていてくれるのですから。

・良心によって行動する ~自然体の素直な心で行動する。…をしなければならない とか 欲望のまま 行動するという意味ではない。

 良心によって行動するということは、今自分ができること・やれることを 肩をはらず できる範囲で行動していくということなのだと思います。使命感にとらわれすぎず 手の届くところから やれることに手をつけていく。そういった構えが自然体の生き方なのかもしれません。

・人生の三つの価値 

 ○創造価値 ~ 物や作品の創造、仕事などを通して自分の役割を果たすこと

 ○体験価値 ~ 自然や芸術、愛情や友情、人とのつながりを体験

 ○態度価値 ~ 避けることのできない運命に対する態度によって、人生の意味を実現する

 ※ 変えることのできない運命を自分の人生の一部としてしっかりと引き受け、苦悩する。‘それでも人生にイエスと言う’ それが人間としての最高業績。その精神の自由を奪うことは誰にもできない。

 物が満たされても、精神は満たされない。それだけ人間は精神的存在なのだと考えます。だからこそ、人は精神的なものが満たされる三つの価値を求めるのだと思います。その価値にふれることで、生きることの充足感を体感でき、絶望や空虚感にとらわれたときにそこから抜け出す力を見出すことができるのではないかと思います。

 それぞれの価値に気づき、ふれることのできる 日々でありたいものです。辛く苦しい出来事に出合っても、そのことと向き合いながら 苦悩を受け止め、待っている人生の中で明日への一歩を踏み出す 自分でありたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「思い出のマーニー」を見て

2014-09-15 21:46:06 | インポート

心に残るアニメでした。

もらいっ子である主人公:杏奈の抱えている心の痛み。幼いうちに両親を亡くしたことで、手にすることのできなかった幸せ。新しい両親が差し出す愛情を素直に受け止めることができないほど、痛みは心の奥深くまで浸透していたのです。

その杏奈の頑なな心が、ぜんそくの療養先で過ごした夏の日々の中で解きほぐされていきます。マーニーという女の子との出会いを通して。

自分を心から愛してくれる人を求める二人が、お互いに相手を必要とし、必要される存在となったのです。

マーニーは、杏奈の心がつくりだした愛する友であり、同時に実在した存在でもあったのです。その友と過ごした日々の思い出が、杏奈の閉ざされた心を少しずつ開いていきます。疑いをもって人を見つめる歪んだ心を まっすぐな心に変えていきます。

そして何よりも、自分の出生の秘密を解き明かす手がかりとなったのです。両親の顔も知らないで育った杏奈にとって、自分がどんな経緯で生まれ、マーニーが自分にとってどんなに大切な人であったかが分かることで、自分の存在の意味を確かめることができたのです。

自分がかって愛された存在であり、今でも身近な人々(もらってくれた両親を含め)から愛されている存在であることを実感することができたのです。

心の痛みは、こうして少しずつ解消されていくのでしょう。そうやっていくなかで、内にいた自分が少しずつその境界線を越えて、外にいる人ともふれあっていけるようになるのでしょう。

痛んだ心が マーニーとの出会いと 穏やかな海と洋館と星と月のつくり出す 美しい景色の中で 癒され 新たな生きる力を見出す 心に 変容していく様子が 印象的です。

杏奈のこれからの幸せを 心から応援し見守っていきたいと思いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする