あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

絵本原画展を見て

2013-04-29 20:40:11 | インポート

今日は、仙台に出かけ、宮城県美術館で開催されている「絵本原画展」を見てきました。

私がこれまで読んだことのある絵本は限られているため、読んだことのない絵本の原画が大半でした。それでも、一枚一枚の絵が個性的で独特の魅力があり、あれこれストーリーを想像しながら表現された世界を楽しく見ることができました。挿絵でありながら、一つ一つが完成された絵画作品という印象もありました。

赤を基調とした「おしゃべりなたまごやき」の長新太さん、ぐりとぐらシリーズの繊細なタッチの山脇百合子さん、「こんとあき」に登場する何とも愛らしいあきを描いた林明子さんの挿絵など、私の知っているものもありました。なつかしい「しょうぼうじどうしゃ じぷた」の挿絵〈山本忠敬さん作〉との出会いは、感動的でもありました。

絵と文 それぞれの作者は異なっていても、二つがみごとに一緒になって生まれる絵本の世界のすばらしさを改めて実感できました。原作者の想像した世界を 目に見える形で表現する画家。二人の想像力と表現力が共鳴する中で誕生する世界が、絵本の世界なのですね。もちろん一人で二役を兼ねて生まれる絵本もありますが……。

原画展を見て、創作欲を刺激されました。自分なりにつくってきた物語がいくつかあるのですが、改めて自らの想像力と向き合いながら思いついた世界を、言葉に表現してみたいという意欲を持ちました。絵による表現は手に余るものがありますが、言葉にすることはできそうです。

忘れてきた若々しいハートを思い出し、創作に挑戦したいと思います。


主権回復の式典と 沖縄の痛み

2013-04-29 18:49:36 | インポート

昨日は、政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が開催され、一方では並行して、沖縄県民が参加する 政府式典に抗議する「屈辱の日」大会が開催されました。

安倍首相は、式典のあいさつの中で「沖縄が経てきた辛苦に深く思いを寄せる努力をなすべきだ」と述べながらも、この式典を強行しました。沖縄の大会では、「政府式典は、県民の心を踏みにじり、再び沖縄を切り捨てるものだ」とする決議を採択しました。

主権回復の見返りに、沖縄や奄美・小笠原の施政権が日本から切り捨てられたという 事実の重みを どう受け止めるかが問われる問題なのだと思います。

屈辱の日以来、沖縄の人々が背負うことになった辛苦にはどんなものがあったのでしょうか。農地をアメリカが一方的に接収し軍事基地がつくられ、アメリカ兵による傷害や婦女暴行、軍用機の墜落事故などが繰り返され、最近では安全飛行が問題視されるオスプレイが騒音をまきちらして市街地を低空で飛び回り、普天間飛行場の県内移設が強行されようとしている状況の中で、沖縄の人々の日常が営まれているのです。72年の本土復帰がなされてからも、いまだにアメリカ軍基地の74%が沖縄に集中しているとのことです。

再び沖縄を切り捨てるのかという 沖縄の人々の怒りの声が心に響いてくるような気がします。

日本の安全保障のために、沖縄の犠牲はしかたがない そういった前提に立ってものごとが進められているような気がしてなりません。国民の一人ひとりの命と暮らしを守ることが、安全保障の基本理念だと思うのですが、同じ日本人である沖縄の人々の日々の安全と暮らしは、誰が守ってくれるのでしょうか。このまま負担を強いることに、同じ日本で暮らす一人の国民として、とても申し訳ない気持ちになります。

軍事基地がない沖縄は、いつ実現されるのでしょうか。日本の安全保障上、どうしても基地が必要だというなら、沖縄以外の場所につくるより仕方がないのではないでしょうか。それだけの負担と痛みを沖縄は背負い続けてきたのですから、本土のどこかで 代わりに 基地の負担を受け入れざるを得ないのではないでしょうか。そうなったら、どうなるでしょうか。どこの県でも、受け入れ反対の運動が起こるのではないかと思います。自分のところにだけは、そんな危険なものを持ってきてほしくないという論理がまかり通るような気がします。

沖縄の人々の痛みを理解し共有するために、できることは何でしょうか。負担を押し付けてきた側に立って、その答えを見出していく誠意が 求められているのではないかと思います。

一人が不幸になることで、一人が幸せになるとしたら、その幸せは耐えられないものになってしまい、二人とも不幸になってしまうことでしょう。二人が幸せをつかむ道を 遠回りでも見つけていきたいものです。


憂慮する政治の流れ

2013-04-27 13:58:18 | インポート

核不拡散条約(NPT)再検討会議に向け、スイスで開かれていた準備委員会で、核兵器の非人道性を訴えた共同声明に、日本政府は署名しなかったというニュースがありました。その理由は、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という表現が、米国の核の傘に頼る日本の安全保障政策と一致しないからだ ということでした。

被爆地である広島や長崎では、失望と怒りを感じているようです。核兵器のもたらす悲劇を体験した日本だからこそ、核兵器が二度と使われることなく、世界中から廃絶されることを願い、先頭に立って行動するのが当然のことだと 私も思っていました。もし、安全保障政策が 状況によって核兵器の使用を認めるものだとしたら、その政策こそ否定すべきものなのではないでしょうか。核兵器を担保にして守られる平和にこそ問題があるのではないかと考えます。非核三原則(核兵器を 持たず、つくらず、使わせず) を前提にし、平和憲法を理念にした 安全保障政策こそ、日本が目指すべき本来のあり方のように思うのですが……。

北朝鮮によるミサイル発射や核兵器開発の動き、核兵器保有国である中国の尖閣諸島での領海侵犯等、現実的な脅威を想定した中での判断が、署名拒否につながったのではないかと思われます。軍事力に頼る 安全保障政策の枠内にとどまっている限り、核兵器のない世界の実現は遠ざかっていくのみという印象があります。軍事力にこれでいいという上限はなく、競い合って高性能の武器や核開発を進める動きが加速されていくのではないでしょうか。ミサイル一つをつくる費用で、飢餓や病気で苦しむ人々をどれだけ救うことができるのでしょうか?

賢明な人類であるからこそ、核兵器や人命を殺傷する兵器に頼らず、人間としての信頼に基づく真の平和を求めるのではないでしょうか。

最近、政治家がよく使う言葉に「国益」という言葉があります。その考え方のもとに、国があって国民がある という認識があるような気がしてなりません。国民がいてこそ国は成り立つのであり、国民一人一人の考えや生活を大切にすることでよりよい政治は実現されていくのだと考えます。国益という抽象的に括った言葉を伝家の宝刀のようにかざし、政治家の考える国の形やありようを国民に押し付けているような印象さえ感じます。

国の枠にとらわれず、国民一人一人に目を向け、人類という視点で 世界のあるべき姿を想い描く 崇高な志をもった 政治家の登場を切望します。政治家任せにしないためにも、自らが 確かな志をもつ 一人の国民であることを大切にしたいと考えます。

靖国神社への 閣僚や国会議員の参拝、憲法改正の動き、沖縄の人々が屈辱の日と考える日に強行する「主権回復の日」、そして 今回の署名拒否、いずれも 一貫した流れの中で起きている出来事のような気がします。そこには、大きな歴史認識の違いを感じます。先の戦争から何を学び、二度と同じ歴史を繰り返さないために何が必要なのか、その認識の違いが大きく影響しているように感じます。

韓国や中国との関係を、相互信頼に基づく隣人関係としていくためには、その点が越えることのできない壁となっていると思うのです。歴史観の違いを認め、相手国の歴史観も視野に入れながら、よりよい隣人関係を築いていくという方向で歩んでいかない限り、壁を乗り越えることはできないと思うのですが……。

先の震災では、国という枠を超えて 世界中からたくさんの温かい支援の手が差し伸べられました。悲惨な状況を見て何とかしたいと行動した 人間としての普遍的な愛を実感したものです。世界の平和も、そういった人間性への信頼を土台につくられていくのではないでしょうか。

何を理想とし、何を志とするか、高い所に視点をおきながら、現実をとらえ 見つめていくことができたら と思います。国や民族・宗教という枠にとらわれず、地球に住む一人の人間としての地点に立って、ものごとを見つめ 考えることができたら いいのですが …… 。


カタクリの花

2013-04-13 20:53:58 | インポート

庭のカタクリが、可憐な花を咲かせました。

うつむく花びらのたたずまいに、その気品ある紫の色合いに 心が惹かれてしまいます。太陽に向かって花開くタンポポやヒマワリも大好きですが、うつむきながら咲く 清楚な あの姿に、この上なく魅了されてしまいます。

カタクリは 群落をつくって咲く花で、一面に咲きそろうと 紫のじゅうたんのように見えます。林の中の木々が新緑のときを迎える前に、降り注ぐ陽光を一身に浴びて咲く姿は、太陽がこぼれ落ちて 紫の光を放っているようにさえ見えます。ここにも そこにも 目をやれば、いろんな場所で 群れをなして 咲いているのですから。

それなのに、なぜか その中の一輪の花に 心を奪われてしまいます。ひとつがみんなで みんながひとつなのか…… 。群れて咲きながら、一つ一つのたたずまいに目が向いてしまうからでしょうか。

同じ花なのに 一つ一つが異なって見えてしまうのです。人間という言葉でくくることのできない 一人ひとりの個性や命の輝き、その存在の重さを感じるのと同じような 感覚を抱くからでしょうか。

その色ではなく うつむいて咲く その姿に、愛しさを感じるからでしょうか。

春という季節を体感しながら 目の前の一輪のカタクリに 見とれてしまいます。 

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憲法について

2013-04-12 10:55:45 | インポート

先日の天声人語に、憲法に対する 日本維新の会の橋下代表の考えが取り上げられていました。

「憲法というのは権力の乱用を防ぐもの、国家権力を縛るもの、国民の権利を守るものだ。こういう国をつくりたいとか、特定の価値を宣言するとか、そういう思想書的なものではない」

大阪市長としての日頃の強権的な姿勢と相反する 権力乱用防止にふれていることに 違和感を感じました。自らの権力乱用を防ぐにはどんな憲法が必要なのか と、聞いてみたくなりました。

憲法の前文には、確かに どんな国を目指すのかという理念が明記され、先の戦争の反省の上に立った 不戦の決意とともに 世界の恒久の平和を希求する願いが書かれています。この理念のもとに、憲法がつくられているわけですが、そのことを思想書的なものではないと片づけ否定していいのかどうか、とても疑問に思います。むしろ、この前文にこそ、人種や国家を問わない 世界に共通する 人類としての普遍的な理想が述べられており、誇るべき内容なのではないかと思えるのです。

今現在、北朝鮮によるミサイル発射が懸念される状況にあり、日本も含め韓国・アメリカが連携して迎撃体制をつくっています。武力には武力をもって対抗することで、軍事力の増強にさらに拍車がかけられていくのではないかと心配になります。武力の行使によってしか、解決が図れないという論理は、戦争を肯定する考え方にもつながっていきます。軍事力のバランスによってしか平和が維持できないところに、根本的な問題が内在しているように思います。先の世界大戦も、世界各地で起きている紛争も、軍事力を前提とした戦いであり、それを超えたところで平和を希求しない限り、多くの犠牲者を生み続けていくように感じます。

軍事力を超えたところで成り立つ平和とは、どんな平和なのでしょうか。憲法前文には、次のように書かれています。

 ~  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。   ~

人間相互の関係を支配する崇高な理想とは、相手への深い信頼であり、お互いを尊重する態度であり、豊かな人間性を認め合うことなのではないかと考えます。それはまた、国民同士として相手の公正と信義を信じることでもあります。

拉致問題も含め、北朝鮮の指導者が信頼できる存在なのかどうか大きな疑問はあります。ただ、多くの国民が専制と隷従、圧迫と偏狭の中に置かれている状況にあるように思います。そういった国民の存在を視野にいれながら北朝鮮という国をとらえ、信頼の糸口を探っていく努力を続けることが必要なのではないかと思います。ミサイルに対抗する手段のみを考えていくだけでは、軍事力の行使という土俵の中から一歩も外へは出られず、対立の構図だけが強調されていくように考えます。

世界平和と自国民とともに他国民の幸せをも願うことのできる 崇高な理想や理念をもった スケール大きい指導者の出現が待望されます。その意味でも、政治に携わる人物には、憲法改正を唱える以上に 憲法前文のような理想や理念をもつことこそが求められるのではないかと思えるのですが……?。