あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

童謡「春よ来い」

2013-02-27 21:14:54 | インポート

穏やかな日中の 春めいた陽光を 感じながら、思い浮かんだのが 童謡「春よこい」でした。

        春よ来い 早く来い 歩き始めた みいちゃんが 

        赤い鼻緒のじょじょはいて おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い と口ずさみながら、ふと思いました。この後の歌詞に出てくる みいちゃんが はこうとしている じょじょとは 何だろうかという疑問です。下駄か草履のような履き物のことを指しているのかなと思いながら、インターネットで検索してみると、分かりました。藁か竹の皮で編んだ草履のことを指しているとのことです。同じような疑問を持った人が問いかけたところ、たくさんの回答が寄せられ、的確な答えとして選ばれたものが、前述の答えでした。それにしても同じ疑問を持った人が他にもいたことに、とても親近感を覚えました。

じよじょとは幼児語で、作詞者の相馬御風の故郷(新潟県糸魚川)で、草履のことを小さい子供達が言いやすいように、じょじょと言っていたのではないかということでした。

歩き始めたみいちゃんが、初めて赤い鼻緒のじょじょを履いて、自分の足で踏みしめる おんもの春は、どんな春だったのでしょうか。土の感触、陽光の輝きや温もり、芽吹く草や木、肌に触れる風に、どんな春を感じ取るのでしょうか。

二番の歌詞は、次のようになっています。

        春よ来い 早く来い おうちの前の桃の木の

        つぼみも みんなふくらんで はよ咲きたいと 待っている

春を待つのは、みいちやんから 桃の木のつぼみに代わります。幼いみいちゃん(人間)だけではなく、桃の木のつぼみも(植物も) 早く花を咲かせようと 春が来るのを待ち望んでいるのですね。

植物だけではなく、野山に住む虫や動物たちも、冬の眠りを終えて 動き出せる日(啓蟄:3/6頃)を 今か今かと 待ち望んでいることでしょう。

春を待つ 生きとし生けるものの  すベてにとって 幸多い春でありますように !

誰にとっても すばらしい春が訪れますことを 心から 願いたいと思います。

 

 

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高田郁作「あい」を読んで

2013-02-27 09:01:04 | インポート

高田郁作「あい」を読みました。「みをつくし料理帖」以来、高田ファンとなりましたが、この作品からも深い感動を覚えました。詩的な文体は、この作品にも生きていて、一つ一つの言葉が心に残るものとなっています。

偉大な人物は、陰で支えてくれる人がいてこそ、志を果たすことができるのだということを改めて実感しました。

関寛斎は、志に生きた医師であり、開拓者でした。貧しい者からは治療代をとらず、名誉や与えられる役職には目を向けず、仁である医の志を貫いて患者に献身的に尽くした人物でした。さらには、72歳にして、「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」という、亡き心の師であった濱口梧陵の言葉に従い、「北海道に渡り、開拓に身を投じ」 その生涯を 志と共に生きた人物でもありました。

この関寛斎と共に生きたのが、この物語の主人公である 妻の「あい」でした。幼い頃、山桃の樹の下で あいが見た少年が、後に夫となる寛斎でした。そして、夫と共に北海道に渡ったあいが最期の時に夢見たのも、山桃の樹であり、少年の頃の寛斎でした。

~ 若い山桃の樹になったあいに、ひとりの少年が取り縋って泣いていた。見覚えのある、少年の頃の寛斎だった。愛は柔らかな枝を伸ばし、切なく泣いている少年をあらゆるものから守るように、ぎゅっと抱き締めた。

物語の結びの一節です。文字通り、最期の時まで夫:寛斎に対する愛は、変わることなく慈愛に満ちたものでした。

いくつかの転機があって進むベき道に寛斎が迷う時、志に沿って生きるよう導いたのも、あいでした。夫婦はたくさんの子宝に恵まれたものの、その半数近くの愛する我が子を病で失いました。医師である寛斎にとって、我が子を見送ることしかできなかったことは、辛いことでした。そういった悲しみに耐え、乗り越えてきたのも、あいの支えがあったからであり、夫婦としての深い信頼と確かな絆があったからなのでしょう。

70歳を過ぎてから 寛斎は北海道に渡る決意をしました。年老いてからの決意であり、開拓者として生きることの苦労を想い、寛斎はあいを徳島に置いて単身で行こうと考えていました。

~ 「…あいには子供らや孫たちとへいおんに暮らしてほしい、と心から願う。この通りだ、私の最後の我儘を許してほしい」 連れ添って47年、寛斎は初めて、妻に両の手をついて頭を下げた。

あいには、夫の姿が かって山桃の幹に取り縋って泣く少年の姿と重なって見え、祝言をあげた夜の祈りの思いが込み上げてきます。

~ あなたの心に封じ込められている哀しみを、拭い去れますように  寂しさに凍える心を,暖め溶かす光になれますように  ~

この祈りの通りに、あいは夫と共に北海道に旅立ちます。

寛斎は、多くの人から神様のように慕われ感謝されたそうですが、寛斎にとってのあいは、仏様のように優しく温かく慈愛に満ちた かけがえのない存在だったのではないかと思います。

志を持って生きるということの大切さ、人間としての在り方、夫婦としての絆の尊さなど、さまざまなことを考えさせられ、感じることのできた作品でした。是非、一読をお勧めします。

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春が足踏み

2013-02-22 19:25:34 | インポート

春到来を書いた日から、寒さがもどってきてしまいました。三寒四温が三寒四寒になりそうです。寒気団は、来週の火曜日頃まで東北地方に居座るようです。雪の多い地域では、さらに降雪があり雪下ろしや雪かき作業が大変なのではと心配になります。この寒さと降雪を最後に、一気に春の訪れとなることを期待したいと思います。

花を開こうとしたオオイヌノフグリも、この寒さに戸惑っているのではないかと思います。犬小屋に入れておいた敷物を外に出し、日中はその上にお座りしたり、寝転がっているクウタも、寒さが身にこたえ 犬小屋の中にいるようになりました。

マルシャークの「森は生きている」の世界のように、2月の精と3月の精の間で、次のような会話が交わされているかもしれません。

2月の精   3月の兄弟、ごめんよ。暴れん坊の冬将軍が、またもどってきたよ。北の故郷に帰

        るつもりが、忘れ物をしたみたいなんだ。

3月の精   2月の兄弟、その忘れ物って何だったの?

2月の精   自分の足跡を残すのを忘れたんだって。これで冬が終わりだよって告げるために

        雪と寒さをばらまいているんだって。でも、来週の初めには、北の故郷にもどるって

        言っていたよ。

3月の精   春の子どもたちも、冬将軍がもどってきたので驚いたろうね。

2月の精   少し寒さに震えていたけど、その分だけ自分たちの出番を待ち遠しく思ってもらえ

        るって 喜びながら 準備をしているよ。

3月の精   ぼくの担当する月が来たら、春の子どもたちにはいっぱい動いてもらえるよう 活

        躍のステージを しっかり整えておくよ。

2月の精から3月の精に 月の当番が入れ替わる頃には、いろんなところで 春の子どもたちの活躍が見られることと思います。 

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死刑制度について

2013-02-22 08:42:14 | インポート

3名の死刑囚の刑が執行されたというニュースがありました。犯した罪の大きさから考えるなら執行されて当然と考える方もいるでしょうし、犯人に対して厳罰を望む遺族にとっても肯定的に受け止める面があったのではないかと思います。そのことを理解しながらも、どこか割り切れないものを感じてしまいます。犯罪者が、犯した罪を償う責任を負うのは当然のことですが、それが死刑という責任の負わせ方でいいのだろうかという疑問です。

3名の死刑囚は、被害者の大切な命を奪ったことが どんなに卑劣な行為であり、その結果 被害者をはじめその家族の方に どんなに深い悲しみを与えることになったのか、そのことを自問し 自省し 被害者の冥福を 心から祈ることができるようになって、執行される日を迎えたのでしょうか。

以前のブログにも死刑制度に対する疑問を書きました。学生時代に 死刑囚:島秋人さんの短歌集「遺愛集」を読んだことが、疑問を抱くきっかけとなりました。その中の歌をいくつか紹介します。

○冷雨(あめ)降れる獄庭(にわ)によく啼くすずめいてちいさきパンをひとり食(は)みいる

○この澄めるこころ在るとは識(し)らず来て刑死の明日に迫る夜(よ)温(ぬく)し

○詫ぶべしとさびしさ迫るこのいのち詫ぶべきものの心に向くる

歌集を読んで私が感じたのは、島さんの心情の変化です。いのちを慈しむ心、自分の罪に対する後悔の念、被害者や遺族によせる詫びる思いが、切々と心に伝わって来るのです。犯罪者としての心情が、清められ浄化されて、一人の人間としての温かい心情に変わっていくのを見るかのような印象がありました。もし、島さんが生かされていれば、その生涯を 罪を悔い、被害者の冥福を祈り続ける ことで 全うされたのではないでしょうか。

死刑囚は、一生をかけてその責任を負い続けることで、人間としての心情をとりもどし その生を終えることができるような気がするのです。

死刑制度は、ある意味で命を奪った者は命で償えと命じる制度のような気がします。人間が人間の生死を決める制度とも言えるような気がします。

命はこの世に生きる誰にでも平等に与えられたものであり、どの命も尊重されなければならないかけがえのないものなのではないでしょうか。

戦争での命の奪い合いは、許されるものなのでしょうか。この世で一番大切にされなければならないものこそ、命そのものなのではないでしょうか。そのことが理解される社会であれば、戦争も 殺人も いじめも 自殺者も ない、本当の意味での理想社会に なるのではないかと思えるのです。

死刑制度は、犯罪を抑止する上で効果があると言う方もいます。しかし、真の抑止は、命の尊さや大切さを誰もが理解し、お互いの命を尊重し合うことでなされるものなのではないでしょうか。

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小さな春を 見つけました!

2013-02-18 21:13:14 | インポート

雪の溶けた地面から、いろんな草花の葉が顔を出しています。

もしかすると、フキノトウが芽を出しているかもしれない。草の間に手を入れながら 地面を探ってみました。残念ながら、フキノトウを見つけることはできませんでしたが、オオイヌノフグリの葉とその先にある かわいい釣鐘のような薄紫のつぼみを見つけることができました。長い間、雪の下に埋もれていたので、横たわって眠っているような感じがしました。でも、明日か明後日のうちには 陽光をいっぱい浴びていく中で あの可憐なコバルトブルーの花を開いてくれそうです。

かわいい 小さな春に出会ったような気がして、とてもうれしくなりました。

雪の下で、ちゃんと春を待つ準備をしていたのですね。そのけなげさに 温かい感動を覚えました。

近くで、しっぽをふりながら こちらをながめているクウタにも、「小さな春を見つけたよ!」と語りかけたのですが……。しっぽのゆれぐあいは、「うれしいね、春が来てくれて!」 と言っているような感じがしたのですが……。

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