あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

アルジェリア事件の続報を見て

2013-01-24 17:48:13 | インポート

消息が不明だった10名の日本人の内、9名の死亡が確認されたとのこと。残り1名の方の消息が一日も早く確認できることを祈ります。

企業戦士であると同時に、アルジェリアの基幹産業発展のために尽力した人々が、事件に巻き込まれ亡くなったことに、やりきれない思いを感じます。その国の産業発展に貢献することは、国づくりを側面からサポートし、そこで暮らす人々の生活を豊かにすることでもあったはずです。第一線で活躍されてきた皆さんは、そういった国際貢献の志をもって働いてこられたのではないでしょうか。その思いを情け容赦なく無にしてしまう 今回の事件だったのではないかと思います。

亡くなった方の身内に、南三陸町で被災し、登米市の仮設住宅で一人暮らしをしているお母さんがおられるとのこと。悲しく傷ましい出来事が重なった上に、息子さんに先立たれ どんなに辛いお気持ちでおられることでしょう。夫を亡くし、母と幼子が残された家族の方もおられます。愛する 息子を 夫を 父親を失った 家族の方々の悲しみを想うと、さらにやりきれない思いに駆られます。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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命について

2013-01-22 09:28:42 | インポート

アルジェリアの事件では、今だ 10人の日本人の安否が不明の状況が続いているようです。家族は、どんなに不安な日々を過ごされていることでしょう。無事に生きておられることを心から祈りたいと思います。

紛争の背景には、経済的な貧しさが根底にあるようです。アルジェリアでは、失業率が25%で、職についても少ない収入のため、経済的自立ができず、結婚も出来ず、政府や社会に対する不満を抱えている若者が多くいるとのことです。そういった不満が、過激な武装勢力であるアルカイダを受け入れ、中にはメンバーになる者もいるとのこと。アルカイダは、潤沢な資金を持ち、モスクを建てたり、経済的な支援をすることで、住民の支持を得ているとのことです。貧しさが解消されない限り、紛争の連鎖は断ち切れず、今回のような事件はまた繰り返されるのかもしれません。政府が、若者たちの不満に耳を傾け、雇用が確保され、経済的な自立ができるような社会をつくりだしていける 国際的な支援が必要とされているように感じます。

102才で 亡くなった柴田トヨさんが、次のような詩を書いています。

              神様

       昔

       お国のために と

       死にいそいだ

       若者たちがいた

              今

              いじめを苦にして

              自殺していく

              子供たちがいる

                     神様

                     生きる勇気を

                     どうして

                     与えてあげなかったの

                             戦争の仕掛け人

                             いじめる人たちを

                             貴方の力で

                             跪(ひざまず)かせて

命のかけがえのなさを誰よりも感じているトヨさんだからこそ、失われた命の尊さと重さを深く受け止め 戦争やいじめのない 誰もが命を大切にできる社会でありたいと願っていたのではないでしょうか。生きるということにふれて、トヨさんは次のような詩も書かれています。

             くじけないで

       ねえ 不幸だなんて

       溜息をつかないで

            陽射しやそよ風は

            えこひいきしない

                  夢は

                  平等に見られるのよ

                       私 辛いことが

                       あったけれど

                       生きていてよかった

                            あなたも くじけずに

紛争地に生きる人々の上にも、陽射しやそよ風は えこひいきせず 誰にも 等しく注いでいることでしょう。そして、いつかは 争いがなくなり 一人一人が 夢を見ながら生きていける 未来であってほしいと願います。

紛争のない平和な日本に生きる我々は、陽射しやそよ風の心地よさを肌で感じることができます。夢は、誰でも見ることができます。その恵みに感謝しながら、今ある命の輝きを大切にした日々を過ごしていきたいものです。

天声人語には、トヨさんの死を悼み、次のように書かれています。

~ 人間には、自らいたわればトヨさんのように、100年を超えて輝く力が備わっている。くじけずに全うする天寿は、愛し、愛された者への小さな花束となろう。心まで冷える冬は、誰にも巡り来る日だまりを飛び石にして。 ~

花束を受け取った一人として、感謝の思いを込めながら トヨさんのご冥福を心よりお祈りいたします。

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アルジェリア人質事件

2013-01-19 11:14:17 | インポート

アルジェリアでの人質事件は、政府軍が施設に突入し、邦人も含めた多くの人質に負傷者が出たようです。新聞によると、日本人17人のうち7人の無事は確認したが、残りの10人の安否は不明。外国人の人質は、日本の他に、イギリス・フランス・ノルウェー・フィリピン等多くの国にまたがっているとのこと。しかし、現地の情報が混乱し、正確な被害状況は掌握できない状況にあるようです。多くの人の無事を祈りたいと思います。

襲われたのは、アルジェリアの基幹産業である天然ガス関連施設で、その建設に関わる邦人やそこで働いている人々が人質とされたようです。襲った武装勢力は、隣国マリでのフランス軍の軍事介入に抗議し、そこからのフランス軍の撤退と政治犯の釈放を求めて、事件を起こしたとのこと。

アルジェリア軍が人質の安全よりも軍事突入を図った背景には、国内でのテロ掃討作戦を20年間にも渡って続けてきたことがあるようです。その間の犠牲者は、10万人を超え、今回の事件でも敵の制圧が優先され、人質の救出は後回しとなったのではないかと見られています。

力と力の対立を通して多くの命を犠牲にしてきた歴史が、何の関係もない民間人の命まで平気で奪ってしまうという結果を生み出してしまったのではないかと思います。そういった繰り返しの中で、平和はいつ訪れるのでしょうか。命が大切にされない社会の中で、たくさんの尊い命が失われていくことに、心が痛みます。そこで生活する市民や子どもたちの命が、しっかりと守られ大切にされる世界であってほしいものです。世界のどこかで、今のこの瞬間にもテロや戦いが繰り返され、命が失われていくという 悲しい連鎖の鎖が 断ち切られる日が訪れることを 切に望みます。

天声人語に、サン・テグジュぺりの言葉が引用されていました。

「なぜ憎み合うのか? ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ、同じ船の乗組員だ」「新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立することはいいことかもしれないが …… 憎みあうにいたっては言語道断だ 」 結びの部分では、 < 彼が スペイン内戦取材中に 民兵につかまり生きてもどれたのは 「人間に対する敬意」が取り戻されたからだと 書き残している。 > と まとめています。

「人間に対する敬意」とは、何でしょうか。一人の人間の持つ 命の尊さとかけがえのなさを 感じ想うことのできる 感性 なのではないかと思います。力と力の対立を超えたところにある 敵と味方という関係の向こうにある 相互に相手の命を尊重し気遣う 想い。地球という 星の上で その想いを共有できる 人と人のつながりを、サン・テグジュぺりは 理想として想い描いたのではないでしょうか。そんな日が一日でも早く実現することを 強く願います。 

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クウタの一匹言

2013-01-18 20:26:08 | インポート

雪は、雨のように ビッショリぬれないから 好きだよ。積もると、周りが全部真っ白になって、明るくなるし、世界がきれいになった感じがする。自分も白い毛なので、仲間が増えたような気がするんだ。だから何となくうれしくなってしまうんだけれど、飼い主はひどいことを言うんだ。「雪の中でクウタを見ると、白くないのがよく分かるなあ。」なんてね。確かに、灰色や茶色の毛も混じっているから、雪の白さと違う色ではあるけど…でも、なんとなく 雪に比べるときたないなあ なんて言われているような感じがするから、それは認めたくない点でもあるんだ。

でも、寒いのはやっぱり苦手だな。いくら自前の毛皮コートをまとっていても、このごろの寒さは身にこたえる。もう、数え13歳になる(犬の世界では老年期なのかも?)からね。一応、家(犬小屋)に住んでいるものの、玄関扉がないから風はスウスウ入って来るし、雪も吹き込んでくる。昼が長くなって、少しずつ太陽の光を浴びる時間が増えたのは、いいけれどね。それに、このごろはノラネコのシロもやって来なくなったので、安心して食事ができるよ。もう、ごちそうを奪われることも、鼻をひっかかれたりする心配も なくなったからね。でも、ちょっぴり気になるんだ。食べ物はあるのかなって。うらやましいほど 雪と同じ きれいな白い毛並をしているんだもの。

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体罰について

2013-01-18 09:44:20 | インポート

大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将が自殺した問題について、マスコミでも盛んに取り上げられるようになりました。体罰が指導上必要なものであるのかどうか、かって巨人軍で活躍した桑田投手も、自分の体験をもとに考えを述ベています。

……私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。……指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。……今は、コミュニケーションを大事にした新たな指導法が、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば10通りの指導法があっていい。「この子にはこういう声かけをしたら、伸びるか」。そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。……体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、自分でプレーの判断ができません。……私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」という人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。

                       <1/12付 朝日新聞39面に掲載された記事より引用>

(1/16付)の新聞の21面には、沖縄・興南高校野球部の我喜屋優監督の考えが掲載されていました。

……子供たちに手を出したくなる時は、よくあります。何度言っても、部のルールが守れなかったり、練習での態度が悪かったり。でも、そんな時は、両手を後ろで結び、我慢します。「言い聞かせる」ことが大切。「殴り聞かせる」という言葉はありません。社会に出て、他人を殴ったら、法律違反になります。学校内で認められるわけがありません。しかも選手は無抵抗です。先生が生徒をたたいたら、生徒は暴力を奮う大人になってしまう。……社会人野球の監督だった時、選手を殴ったことがあります。交通事故を起こしたのです。死んだらみんなに迷惑をかけることになるんだぞ、よくぞ生きて帰ってきてくれた、と教えたかった。親の身になって叱ることは必要です。……チームを引っ張る主将は本当に大変です。選手から嫌われたり、監督に怒られたり。チームが負ければ、強く責任も感じます。主将は、監督と選手のパイプ役でもあります。そのパイプがつまることがある。そんな時は、監督が悩みを聞いてあげなければ。……野球部が甲子園に出なくてもいいんです。高校の3年間はあっという間に終わるけれど、人生のスコアボードはずっと続きます。指導者だけでなく、保護者も社会も一緒になって生徒を見守っていかなければ、いけません。

私自身も、担任した子どもに思わず手をあげて叱ったことがありました。どんな理由や事情があったにせよ、体罰は正当化できるものではなく、その罪意識は今でも心に残っています。体罰という言葉を目にするたび、疼くような心の痛みを感じます。桑田さんの語る「体罰に愛を感じたことは一度もありません。」という言葉が重く心に響きます。

部活であれ、教室であれ、教師は教え導くという立場にありながら、子どもに対し権力者としての力も持っています。上下関係のもとで、感情的な思いのまま権力者としての言動を行使することで、子どもは何を学び何を感じることができるのでしょう。指導する側が、指導される子どもを死に追いやり、その未来を奪ってしまったという 痛ましい出来事は、教育に携わる者に深い警鐘を与えているのだと思います。

子ども一人一人の大切な命と未来を預かっているという責任があるということ。子どもの可能性を一緒に信じ、その子自身が自らの力で未来を切り拓いていけるよう指導・支援していくということ。一人一人の個性を重んじ、その子にあった指導・支援を工夫していくということ。絶えず子どもの声に耳を傾け、心によりそう関係を築いていくということ。

我喜屋監督の言葉にあるように、子どもたちの「人生のスコアボードはずっと続きます。」 教育に携わった者として、子どもたちの 人生の ある時期に ある場所で 出会い 共に生きる時間を持つことができたという 喜びを大切にしていきたいと思います。そして、その子の人生の応援者として 出来る限り その歩みを 見守っていけたら と思います。

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