あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

サクランボジャム

2015-05-24 21:33:25 | 日記
収穫したサクランボをジャムにしようと妻が挑戦しました。
ジャムになる前の煮込んだサクランボを味見させてもらったのですが、おいしさが格別でした。
実の持つ自然の酸っぱさが、砂糖のあまみと調和して、何とも言えない奥深いうまさを感じました。

今日は、午前中から鳥たちが訪れては、実をついばんでいきました。
それでもまだまだ残りがあるので、妻と娘が午後に再度サクランボ摘みをしたようです。
人間が味わうのは、ここで終了です。
あとは、鳥さんたちに思う存分食べてもらいたいと思います。

鉢植のユズとグレープフルーツの葉に、アゲハの幼虫を何匹か見つけました。
ユズは二度目の白い愛らしい花を咲かせているのですが、幼虫の数だけ葉を供給できるか心配な状況です。
グレープフルーツの葉も同様です。
異なった場所のサンショウには、実がついているのですが、幼虫の姿は見つかりませんでした。
葉の数と量においては、サンシヨウの方がたくさんの幼虫の食欲を満たせるのですが……

種をまき、苗を育てながら、笑ってしまうような困った問題が生じています。
立派な苗に育ったエンドウとスナックエンドウなのですが、どちらがどちらなのか区分がつかなくなってしまったのです。
畑には、見た目のわずかな違いで区分しながら植え付けたつもりなのですが、区別するのが難しくなってしまいました。
できた実を見て、区分するより仕方がありません。
かなり昔の話になりますが、キュウリとヘチマの区別がつかず困ってしまったことを思い出します。
ヘチマだと思って育てたものが、実はキュウリだったという落ちがあったのです。
几帳面さに欠ける性格が、災いとなったようです。

もしかすると、スナックエンドウと思ったものがエンドウだったり、二つを混在して植え付けした可能性があります。

後者の場合ですと、設置したネットに、エンドウとスナックエンドウを同時に収穫できるかもしれません。

それも 楽しいことと考える所に、未だに 素人農業の域を出ないところに 位置している自分を自覚します。

それでも あわてず あせらず のんびり といった思いで、日々の農作業にあたっています。




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サクランボ摘み

2015-05-23 21:38:26 | 日記
毎年、鳥たちとの争奪戦を繰り広げているサクランボの木が敷地内にあるのですが、今年は何とか人間の口に入りました。

3日ほど前から、サクランボの実が色づき始めました。
摘果作業はしていないので、一つ一つの実は小さめですが、食べてみると甘酸っぱくおいしい味がします。
赤く光沢のある色合いは、青空を背景にするとさらに色鮮やかでおいしく見え、今年は、3日前と2日前は私が摘み取り、
今日は妻が朝の内に収穫しました。
色づきをみていると、今日あたりが、鳥たちがやってきそうな予感がしました。
手の届く範囲だけは収穫し、それ以外は鳥さん用にと考えたのですが、まだまだたくさん実は健在です。
最近は、鳥たちの方が先取りする機会が多かったのですか、今年は何とか人間の方が勝ったようです。
にぎやかにさえずりながら、実を食べ尽くす姿は、まだ見られません。
勝利者としての余裕からでしょうか。
ゆとりを持って、鳥さんたちの訪問を待っていたいと思います。

今年は、梅の実の収穫は期待できませんが、プラムの木に実が初めてついたので新たな楽しみが増えました。
昨年は、花が咲いたものの結実はしませんでした。
今年は花の後にあちこちの枝に実がついていたので、いくつか収穫できそうです。
梨や桃、ブルーベリー、姫リンゴの実も期待できそうです。
イチゴの花も咲き始め、一部には実がついています。

種まきしたメロンやスイカの芽も順調に育ち、立派な苗に成長したら畑に植え付けようと思っています。

晴天の日が多く、恵みの雨が少ないことが、畑の作物の成長に心配な点ではありますが、ジャガイモをはじめ
今のところはその成長ぶりに心配はなさそうです。

今、庭はマーガレットが満開です。ボタンは最盛期が過ぎました。

花の移り変わりと 手をかけた作物や草花の成長を ゆったりとながめることのできる幸福を実感しています。

自然のもつ体内時計が、少しは私の内でも廻り始めているような気持ちがしています。

5月もあと少しですね。残り少ない5月の色や光や言葉をいっぱい集めていけたらと思っています。
レオ・レオニの絵本に登場する フレデリックのように!

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詩「ヒロシマというとき」を読みながら

2015-05-16 10:26:29 | 日記
5/15付の天声人語の中に、故パルメ首相(スウェーデン)のメッセージと被爆した詩人:故栗原貞子さんの詩の一節が取り上げられていました。
「どの国の政府であれ、責任ある地位にある者は、すべて広島を訪れることを義務づけるべきだ。」
反核の世界的リーダーであったパルメ氏の言葉です。広島を訪れることで何を学びとったのか、ハルメ氏の思いが込められたメッセージだったのではないかと思います。

 次に、栗原さんの詩を全文、書き出してみます。

 「ヒロシマというとき」

           栗原 貞子

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
 やさしくこたえてくれるだろうか

〈ヒロシマ〉といえば 〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば 〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば  女や子供を
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

〈ヒロシマ〉といえば 
血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
 返ってこない

アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ


〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
 やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信の苦い都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるバリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない


何と痛切な思いを込めた詩でしょうか。

今の政治的な動きに対する 強烈なメッセージでもあるのではないでしょうか。

捨てた筈の武器を捨て去らずに 新たな軍事的協力関係をつくり
異国の基地を撤去せず、沖縄に新たな基地負担まで押し付けようとすることで
〈ああ ヒロシマ〉と やさしい応えは返ってくるのは さらに遠のくのでしょう! 

原爆投下による被害者でありながら
『汚れた手をきよめねばならない』と
戦時下における アジアの人々に対する 加害責任を自ら背負おうとする決意と痛み。

この切なる思いは、悲しいことに 日本の政府や政治家の心には届いていないのでしょう。

日本政府が、核軍縮を扱う最終文書に『世界の指導者らに被爆地を訪ねるよう』提案したところ、中国から『日本政府が第二次世界大戦の加害者でなく被害者として日本を描こうとしていることに同意できない』とクレームがつき、その文言が削除されたと 天声人語で紹介されています。

また、本文では「パルメ氏の言葉も、加害と被害を超えた人道にの深みに根ざすものだ。核廃絶の願いまで歴史認識につなげるのは筋が違う。提案を復活させてほしい。」と 結んでいます。

その考えには全く同感なのですが、前提となるべき 加害責任を認め謝罪をするという一歩を日本政府が踏み出さない限り、被害者意識に基づいた主張としてしか、中国や韓国は受け止めないのではないでしょうか。

そのことを 誰よりも悲しい事実として 憤りをもって 受け止めているのは 『血と炎のこだま』を聴くことのできた栗原さん自身なのではないでしょうか。

こだまに耳を傾け 過去の加害者としての過ちを認めることで、平和国家としての日本の歩みと 核廃絶を願う真摯な思いが、かっての被害者であるアジアの人々に受け入れられ、その心に届いていくのだと思います。


被害者でありながら アジア人々の心の痛みにも心をよせる 栗原さんの耳に、
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしいこたえが
かえって来る日が いつかはきっと訪れる日がくるのでしょうか?
その日が 必ず訪れることを信じ、願い続けていきたいものです。
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政治家に 未来を見つめる目があるのでしょうか?

2015-05-14 18:51:11 | 日記
安保法案が閣議決定されたとのこと。
昨年の集団的自衛権の行使容認に引き続いての閣議決定です。
アメリカとの軍事的な協力関係を強化し、自衛隊の活動範囲を大幅に広げることが、積極的な平和主義に結びつくのでしょうか。
戦いを肯定し、積極的な軍事的な支援をすることが、平和主義と言えるのでしょうか。

中国の台頭と脅威、北朝鮮の存在を意識して、力には力で対抗していくと考えているのでしょうか。
現実的なパワーバランスを考えるならば、必要な法改正なのだと主張するのでしょうか。

平和憲法の枠を越え、後方支援と言いながら軍事力の行使に加担していくことで、どんな未来を展望しているのでしょうか。

敵か味方かの論理の中で、戦争そのものも肯定し、国家の存立と国民の生命を守ることを大義にして 歩む先には、何が待ち受けているのでしょうか。

専守防衛と言うこれまでの自衛隊の役割が大きく変容し、戦後70年の歩みの中で築き上げてきた平和国家としての日本のイメージまで変えることで、
どんな未来が誕生するのでしょうか。

憲法が指し示す未来は、平和を希求する普遍の思いを世界の人々と共有する中で、信頼と信義を重んじ、どの国も敵対視せず共存と共栄を実現していく
未来なのではないかと思います。

それは現実の力関係を視野に入れない理想論だと一掃されても、未来は誰もが希望をもって理想に立ち向かうぺき世界なのではないかと思うのです。

政治の世界は、あまりにも現実に迎合し、未来を見ることを忘れているのではないかと思ってしまいます。
それまた、過去の歴史をどう踏まえるのかということとも深くかかわってくる問題でもあります……

沖縄の問題も、安保上基地は必要であり、沖縄につくるべきだと政府は考えます。
なぜ沖縄でなければならないのか、それはアメリカの戦略の論理とそれを受け入れる政府の考えが一致しているからなのでしょう。
しかし、戦争末期に沖縄だけが本土防衛の前線基地としてあれだけ多大な犠牲を出し、戦後はアメリカの統治下に置かれて基地がつくられ、アメリカ兵の横暴に
さらされ 痛みを背負ってきたという事実の前で、新たな負担を強いることは許されることなのでしょうか。

沖縄の人々が背負ってきた痛みを理解しようともせず、強引に政府は辺野古に新たな基地をつくろうとしています。

軍事力のパワーバランスが平和をつくる源と考える人々にとっては、それが現実的課題となり、その先の未来を見失ってしまうような気がしてなり
ません。

基地はいらないのです。
敵・味方の区分は不要です。
戦争に加担する軍隊は、無用です。
平和は、それを求める人々の願いとともにあるものだと考えます。
それはまた、自国の国民と同様に他国の国民の生命も、同じ重さをもち、尊くかけがえない存在と考えるところから生まれる考えでもあります。
日本の未来を 世界の未来を どう見つめるのか、
政治家には しっかりとそれを見つめる視点をもってほしいと切望します。
力に頼ることで成り立つ平和ならば、政治家は無用です。
軍人に任せることで 済むことなのですから…。
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コンパニオンプランツ

2015-05-11 19:41:41 | 日記
コンパニオンプランツは、野菜づくりを行う際に、複数の植物を組み合わせて植え、お互いの性質の違いによって
病気や害虫の発生を防いだり、生育を促したりする考え方であり、方法であるそうです。
農薬に頼ることなく、植物個々の特性を生かしながら、より良い成長関係をつくりだすことができたらどんなに
いいだろうと考え、昨年はトウモロコシとエダマメを組み合わせて植えてみました。
その成果を実感するまでには至りませんでしたが、今年はいろんな組み合わせを意識ながら幅広く取り組んでみよ
うと考えています。
参考図書は、「コンパニオンプランツで野菜づくり」 監修:木嶋利男 主婦と生活社 です。

考えてみますと、人間社会でも同様なとらえ方ができるのではないでしょうか。
一人ひとりのもっている個性や特性、特技や才能が、相互に発揮されることで、豊かな社会生活が営まれているのであり、
誰もが必要とされる存在であり、相互に支え合うことで成り立っているのが人間社会なのではないでしょうか。

お互いをかけがえのない存在、必要な存在と認め・受け入れることで、どんなにこの社会は生きやすい社会になることでしょう。

ボランティアでいろんな方の悩みや抱えている辛さを耳にしながら、痛切にそのことを感じます。

生きにくい環境をつくっているのも人間であり、生きやすい環境をつくることができるのも人間です。
環境をつくる主体の人間の一人として、意識的にこの課題をとらえながら、よりよい環境をつくるために自分のできることを考え
実践していきたいものです。
見えないところや気づかないところで、さまざまな痛みや苦悩を背負いながら生きている人がいることに想いを馳せながら…。





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