あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

大飯原発再稼働差し止め判決を読んで

2014-05-25 10:28:47 | インポート

判決要旨を読み、原発問題に新たな視点から切り込んだ画期的な判決だったのではないかと思います。反原発の立場の人にとっては、人格権侵害という理念のもとで原発の問題点を考えるよりどころになりそうです。昨日の新聞には、判決文を好意的にとらえ高評価する声が紹介されていました。

個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、その総体が人格権といえる。生命を守り生活を維持するという、人格権の根幹部分に対する具体的な侵害のおそれのあるときは、侵害行為の差し止めを請求できる

・原発の再稼働が人格権の侵害にあたものだとする 基本的な考え方を提示し、その論に従って判決が出されています。大飯原発という個別の問題ではなく、原発の存在そのものが人格権を侵害する危険な存在であるかどうかを問い直す 大切な視点だと考えます。

「原発は、電気の生産という社会の重要な機能を営むものだが、その稼働は、憲法上は人格権中核部分より劣位におかれるべきものだ 

・電気は経済面でも生活面でも必要なもの。しかし、その電気を生産すること〈原発を再稼働させて電気を供給する〉よりも、人格権がはるかに優先するものであり上位にある。電気をつくりだすことで、人格権を侵害することがあってはならないのである。原発も電気を生産する一つの設備であり道具であって、その稼働によって人格権を侵害するようであってはならない と読み取ることができるように思います。

「被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コスト削減につながると主張するが、当裁判所は、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的に許されないと考える。

・多数の人の生存そのものに関わる権利〈人格権と同義ととらえることができると思います〉の前では、電力供給の安定性の確保や電気代の高低の問題等は論外であり、同列に扱われる問題ではない。原発稼働を正当化する理由は、電気を生産するための単なる理由づけにすぎないととらえることができます。

「このコスト問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止で多額の貿易赤字が出るとしても、国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だと当裁判所は考える。」

・国富とは何か。豊かな国土と国民が根をおろして生活していることが国富である。原発の運転停止で被る貿易赤字などは国富の流失や喪失とはいえず、豊かな国土とそこで生活する権利〈人格権〉を失い、それらを取り戻せなくなることが国富の喪失である。国富とは、抽象的なものではなく、豊かな自然の中で日常の日々の暮らしが安全で安心な環境で営まれることを指しているのではないかと考えます。それはまた、普遍的で未来にもつながる 人間が人間らしく生きていくことのできる生活や環境の保全を意味するものと考えます。国富という観点に立てば、原発の存在と再稼働が、いかにこの国富の喪失に結びつくものであるかと 見直すことができるように思います。

「また被告は、原発の稼働が二酸化炭素排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、ひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじい。福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原発の運転継続根拠とするのは甚だしい筋違いだ

・福島原発事故から学んだことは何だったのでしょうか。安全神話の崩壊、環境汚染のすさまじさ、そこで暮らす人々の多くの命と生活を奪い、国富を取り戻せなくした事実の重さを 痛感しました。世界で一番厳しい安全基準を設けて再稼働を進めると政府は語っているのですが、新たな安全神話をつくりあげて再稼働を進めようとしているようにしか思えません。ひとたび事故が起こったら、その後処理に手をやき、核ゴミの始末さえままならず、その管理や処分方法さえ決まらず、気の遠くなるような時間が必要とされる 現状の中で、なぜ再稼働を推進しようとしているのでしょうか。

人格権や国富を守っていくためにも、原発の再稼働を認めないという考えと 原発のない世界の実現を願う気持ちを 持ち続けていきたいと思います。


憲法前文と集団的自衛権

2014-05-19 21:12:15 | インポート

集団的自衛権とその行使を容認するかどうか、大きな問題となっています。憲法を変えずに解釈を拡大することで行使できるようにしていくという安倍首相の意図を受けて、首相の諮問機関である有識者懇談会は行使容認の方向で結論を出したようです。もともと、集団的自衛権の行使を認める人たちで構成されていた諮問会議ですので、結論ありきの諮問結果だったのではないかと思います。

私は、憲法の理念に沿うならば、集団的自衛権そのものを論ずることさえ無用であり、拡大解釈が成り立つ余地さえないと考えます。

憲法はその前文で 世界の平和と自国民の安全保障は、軍事力を行使することではなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べています。

政府は、日本の周辺における緊迫した国際情勢を強調し 対北朝鮮、対中国との軍事的な衝突の危険を想定して、自国民の保護と同盟国の支援を目的に 集団的自衛権の行使を進めようしています。

しかし、日本に対する国際情勢の悪化は、そもそも誰がつくり出したのでしょうか。日本政府の顔である 首相をはじめ閣僚の靖国参拝、慰安婦問題を含めた歴史認識の問題、特定秘密保護法案の成立、憲法改正への動き等が、周辺国の不信を招き、かっての日本に逆戻りしているような印象を与えてきたのではないでしょうか。

集団的自衛権行使の方向に踏み出していくことは、日本に対する不信の念をさらに拡大し、より一層 軍事的な衝突を招きかねない状況をつくることにつながるのではないかと不安になります。また、現行憲法のもとで不戦の誓いを立て平和主義の路を歩んできた日本が、軍事力の行使も可能な危険な国になることを印象づけることになってしまいます。

集団的自衛権を行使できるようにすることが相手国の軍事力行使の抑止になる という考えを賛成派は述べているようですが、本当にそうでしょうか。軍事力に頼ることによって、相手国より強力な軍事力を増強しようと 双方が限りのない軍事拡大路線を歩んでいくことになっていくのではないでしょうか。

軍事力に頼る平和は、ちょっとしたきっかけで一触即発の危険な戦争へとつながっていくのではないでしょうか。

戦争の悲惨さや数多くの尊い命を失った悲しみの体験があったからこそ、二度と戦争のない恒久の平和を切に求める 平和憲法が 生まれたのではないかと思います。その思いは、憲法前文から読み取ることができます。

「~われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。~」

ここで述べられている「名誉ある地位」こそ、日本が目指すものであり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと」努めることで、得ることのできるものなのではないかと考えます。

平和共存できる 世界の実現ために、武力に頼らず何ができるか。

その問いにこたえていく道こそ、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」道であり、歩んでいく道なのではないかと思います。決して武力の行使を肯定する道ではないはずです。


新緑の中を歩きながら

2014-05-16 22:20:54 | インポート

春の花もいいですが、新緑もいいですね。

生命力あふれるみずみずしい緑、その色合いも 濃淡も さまざまで、木や草によって 葉の形も付き方も 千差万別です。それぞれが 立体的に 重なり合い 調和し合い 醸し合い 作りだす 世界の美しさに 心の内まで 緑に染め上げられそうです。 まどみちおさんの詩『空気』の一節のように…。

~ 

5月

ぼくの心が いま

すきとおりそうに 清々しいのは

見渡す青葉たちの 吐く空気が 

ほくらに入り

ぼくらを内側から

緑にそめあげてくれているのだ

森の中で、見上げる緑がまたいいですね。

緑を透かして 光までもが 輝く緑となって 頭上に広がり 世界を包み込みます。

自らの身体も 緑に洗い清められているかのように 

内も外も 緑に 満ち溢れてくるような

みずみずしい生命力と 一体になったような 

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島秋人の歌集「遺愛集」より

2014-05-10 08:34:13 | インポート

先のブログで紹介した島秋人さんの『遺愛集』から、心に残る短歌をいくつか紹介します。

  ・たまわりし 処刑日までの いのちなり 心素直に 生きねばならぬ

  ・声あげて 悔いいることも なぐさめか 死刑囚に無き 更生のみち

  ・賜れど 分かつ人なし 獄の夜 二つの梨を 並べ置き寝る

  ・母在らば 死ぬ罪犯す 事なきと 知るに尊き母 殺めたり

  ・過ぎてゆく ひと日を惜しみ 許されぬ いのちのなかに 愛〈かな〉しさを知る

  ・にくまるる 外に詫ぶすべ 今はなく 母を殺めし罪 重く知る

  ・生かされて 自愛に学ぶ 今の身の 在るとは識らず 知りて愛〈かな〉しき

  ・処刑 多く行うべき と云うを聞き 悔い生かさるる ひと日を愛〈お〉しむ

  ・冷雨〈あめ〉降れる 獄庭〈にわ〉によく啼く すずめいて ちいさきパンを ひとり食〈は〉みいる

  ・この澄める こころ在るとは 識らず来て 刑死の明日に 迫る夜〈よ〉温〈ぬく〉し

  ・詫ぶべしと さびしさ迫る このいのち 詫ぶべきものの 心に向くる

  短歌をつくりはじめて七年後に、島さんは処刑されます。その日の朝の日付で、被害者のS氏に宛てて次のようなお詫びの手紙を書いています。

  『 長い間、お詫びも申し上げず過ごしていました。申しわけありません。本日処刑を受けることになり、ここに深くお詫び致します。最後まで犯した罪を悔いて居りました。亡き奥様にご報告して下さい。私は詫びても詫び足りず、ひたすら悔いを深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されます事をお願い申し上げます。申しわけない事でありました。ここに記しお詫びの言葉に代えます。 』

  取り返しのつかない罪を犯したことに対する後悔の念が、切々と伝わってきます。

  それにしても、命を命で償うという死刑制度の非情さを想わずにはいられません。命を奪うことは罪です。しかしそれを犯した人の命は、簡単に奪えるほど軽いものなのでしょうか。人間は人間の生死を決めることができるほど尊大な存在と言えるのでしょうか。

  袴田事件のような冤罪を二度と起こさないようにするためにも、一人の命の重さと尊さに向き合いながら 死刑制度について改めて見直す時期が来ているのではないかと考えます。


袴田事件を通して考えたこと

2014-05-06 12:20:47 | インポート

『袴田事件が問うもの』と題して 死刑制度の問題について問いかける社説を読みました。

48年間もの獄中生活を過ごし、袴田さん自身は精神を病んでいたとのこと。死刑囚としての日々は、冷たいコンクリートの中で差し迫った死と向き合う 過酷な毎日だったのではないかと思います。自由と生きる望みを奪われ、絶望の中で いつ死刑執行の日が訪れるのかとおびえる毎日。その中で、17,520日も過ごしてこられたのです。

以前のブログで、死刑囚であり歌人でもあった島秋人さんのことを取り上げ、死刑制度のありかたに疑問の思いを書いたことがありました。島さんは実際に犯罪を犯し、死をもって罪を償うことを受け入れた方でもありました。獄中の中で、短歌をつくりはじめ、それまでの自分の生き方を見つめ直し、命の尊さや残された遺族の辛さを考え、罪の重さを深く自覚するようになります。同時に、死刑囚として刑の執行を待つ日々の苦しい胸の内も 短歌で表現しています。「遺愛集」として収められた短歌の一つ一つに、死刑囚ではなく 人間「島秋人」の思いが切々と込められています。

袴田さんの場合は、島さんとは異なり、冤罪で獄中生活を48年間も過ごさなければなりませんでした。犯してもいない罪を背負い、死と隣り合わせの日々を過ごしてこられたのです。無期刑でも2010年以降だけで、足利事件など四人が再審無罪となっているとのこと。冤罪が明らかにされず無実のまま刑が執行された方もおられるのではないでしょうか。そのことを想像するだけで心が痛みます。

死刑制度が存続している国は、現在 先進国ではアメリカの一部の州と日本だけとのことです。社説にあるように「人間が犯した罪を、訴追し裁くのもまた人間だ。誤判はありうるという前提にたって考えざるをえない」という思いに、共感します。袴田さんが失った48年間を誰が戻してあげられるのでしょうか。

それでも、死刑制度が重大な犯罪を抑止する上で有効だと言い切れるものなのでしょうか。残された遺族の無念の思いを受け止め、死をもって罪を償うことを良しとすべきなのでしょうか。

冤罪で死刑が執行されるような事態を防ぐという視点からも、死刑制度の見直しが必要なのではないかと考えます。また、島さんが、犯罪者から人間にと変わることが出来たように、自分の罪を心から認め遺族に謝罪できるような 犯罪者の更生を大切にした 制度に変えていくことはできないのでしょうか。 罪を憎んで人を憎まず といった考えに立ち、死刑制度の廃止を前提にした制度の再検討が必要と感じます。

この世にたった一つしかない命の尊さと重さとを推し量りながら、袴田事件の提起する問題を改めて考えていきたいものです。