あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

核のない平和な世界を願って

2010-07-30 12:22:05 | インポート

 今年の広島での平和記念式に、アメリカのルース駐日大使が参列するとのニュースを読みました。これまでの記念式には、核保有国の中でアメリカ・フランス・イギリスの代表は参列したことがなかったということです。オバマ大統領が昨年の四月にプラハで行った演説『アメリカは核兵器を使った唯一の核保有国として道義的責任がある』という考えを反映した形で、参列することになったようです。核のない平和な世界の実現に向けた確かな一歩となることを心から願います。

 平和という言葉に重ねて思い出すのが、パブロ・カザルスという音楽家のことです。

 1971年、世界的なチェロ奏者として有名だったパブロ・カザルスが、それまでの41年間の沈黙を破り、国連の場で、故郷であるスペインのカタロニアの民謡『鳥の歌』を演奏するという出来事がありました。知っておられる方も多いかと思いますが、この時のカザルスは90歳を超える年齢でした。スペインの内乱で悲劇の戦場となったカタロニアがカザルスの故郷でした。この内乱の中で、カザルスは、戦争の中で犠牲となった多くの人の死を見つめ、自らも難民としてフランスに亡命することになります。やがて内乱は終わり、スペインはフランコ将軍が独裁者として治める国となります。そして世界の国々がそのスペインを承認していくのを見て、カザルスはその不合理に対する抵抗として、公での演奏を一切拒否することにしたのです。そのカザルスが、41年振りに国連の会議場という公の場に立ち、演奏をしたのです。

 ガザルスは、演奏の前に『鳥の歌』の紹介をしました。  「故郷カタロニアでは、鳥は ピース(平和)  ピース  ピース となきます」   と語り、人と人とが殺し合うことのない平和な世界の大切さを切々と訴えたそうです。

 この演奏された『鳥の歌』<カザルス自身のチェロの独奏>を聴いて、改めて平和の意味と大切さを考えてみたいものだと思っています。

追伸:カザルスは、次のようなことも言っています。

 学校では、いつ 2+2=4以外に、子どもがどんな存在なのかを教えられるのだろうか。ひとりの子どもが やがてシェークスピアのようになり、モーツアルトのようになる存在であるということを。自分が そんな可能性のある存在であることを知った子どもは、自分と同じように隣の子どもの存在を大切に考えるようになるのではないか。                       

 一人一人の子どもが、無限の可能性をもち、かけがえのない存在である。また、そのことを子ども同士が認め、お互いの存在を大切に感じ合う。とても大切なことだと思います。世界という広い枠の中で、国や人種を越えて、お互いにその存在を理解し大切に考えることのできる「平和」な関係を築いてほしい…カザルスはそんなことを強く願っていたのではないかと思います。

   


アゲハの幼虫の食欲、満たすことができそうです!

2010-07-28 20:37:45 | インポート

ついに見つけました!

立派なサンショウの木です。

園芸関係の専門店巡りをしながら、やっと見つけました。

これさえあれば、幼虫たちの食欲を十分に満たすことができると思いましたが、新たな問題に

直面しました。木の背丈が2mを越える高さなので、横にした状態で果たして私の乗用車に積

めるかどうかという問題でした。シートを倒し、車内に対角線上に置けば積め込むことができそ

うでしたので、やってみたらなんとかギリギリセーフでした。

家に帰ってから、さっそく植えることにしました。約80㎝のサンショウの木が2本、主要な枝を

間違って切ってしまい、その側面から新しい枝が伸び小さな葉を広げたチビサンショウの木<

高さ約15㎝>が1本、鉢植えのスダチの木が1本。この4本で四角形を形作っていたのです

が、この近くに新たなサンショウの木を植え、アゲハの幼虫がたちが生育できる食草エリアに

しました。

今日の午前には、7匹在住のサンショウの木から3匹ほどを新たな木の方に、強制移動しまし

た。割り箸でそっとはさみ(傷つけないよう)ながら移動させたのですが、その後の3匹の生育

状況を観察し特に問題がなければ、他の幼虫たちも随時新しい木へ転居させたいと考えてい

ます。

転居を終えた幼虫たちの動きをじっくりと観察していましたら、なんとアゲハがやってきて、新し

いサンショウの木に卵を産みつけるのを見ることができました。

アゲハ幼虫村のこれからのにぎやかさを想像すると、とてもうれしくなりました。

この村から、何匹のアゲハの成虫が巣立っていくのか、これからが楽しみです。

今後の成長の様子については、ブログを通して随時紹介していきたいと考えています。

   ※追伸:セミのぬけがらを家の周りの木々の枝や葉の裏に見つけることができます。

        先日は、草刈りをしている私の背中にアブラゼミが留まるということもありました。

        クモの巣にかかったアブラゼミを見つけ、逃がしたこともありました。

アゲハの幼虫も含め、その時期や季節に合わせ、命ある虫たちが生きていることのすばらしさ

と その一つ一つの命そのものの重さや尊さを しみじみと 実感するこのごろです。


愛犬クウタの近況について

2010-07-26 21:13:20 | インポート

この暑さは、犬のクウタにとってもつらいものがあるようです。

日中はハッハッという息遣いも苦しそうで、涼を求めて日陰のあるところに移動しては、落ち着

きなくウロウロしています。

その様子を見て、日陰の箇所がいくつかあり、涼しい風の通り道にもなっているスペースで日

中は過ごせるよう、鎖を固定する場所を移動しました。

梅の木の枝に鎖を固定すると、そこを中心に360度移動でき、いちじくや柿の木の下の木陰

等、太陽の動きに合わせて涼しい所に移動しているようです。

足を投げ出し、無防備の状態で気持ちよく木陰で寝ている姿を見ていると、見ている自分まで

気持ちよくなってくるから不思議です。

クウタの寝るところは、土がむき出しになっています。もちろん、イチジクや柿の木の下も寝る

スペース分が土だけになっています。

地面に直接ふれた方が涼しく気持ちよいためでしょうか。

最近マリーゴールドの苗を犬小屋近辺に植えたのですが、何者かがせっかく植えた苗を掘り

出して散らすという事件がありました。

犯人は、もちろんクウタでした。

クウタの目の前で苗の植え付け作業を行ったので、まさか掘り起こしたりはしないだろうなあと

思っていたのですが、犬が理解するには難しい点があったようです。

クウタにとっては、そこも寝るスペースの一画となっていたものと思います。

11年目の夏も、我が愛犬には暑さに負けず元気に乗り切ってほしいと願っています。


アゲハの幼虫村が誕生してしまいました!

2010-07-26 06:34:15 | インポート

以前ご紹介しましたが、新しく植えたサンショウの木に現在住んでいるアゲハの幼虫は7匹に

なりました。幼虫としては5匹その姿を確認したことを前にお知らせしましたが、その後卵か

ら新たに幼虫として生まれたのを2匹確認しましたので、現在は一本のサンショウの木(約8

0㎝の高さ)の住人(住虫)が7匹ということになります。

どう考えても、サンショウの木一本ではせいぜい2匹の幼虫の食欲を満たすのにやっとの葉の

量でしかないのです。

5匹の幼虫を確認した時点で、このことを予想し、新たなサンショウの苗木をそばに植えておい

たのですが、なんとその苗木にも幼虫と卵を発見しました。

その上、さらなる予備としてそのそばに植えたスダチの苗木にも、幼虫と卵の存在を確認しま

した。

まるで、アゲハの幼虫村が誕生したかのような感じになってしまったのです。

村の管理者としての責任もあり、なんとかすべての幼虫を成虫になるまでサポートしていきた

いと考えているのですが……。

まずは、これらの幼虫たちの食欲を十分満たすことのできる葉を確保するために、早急にアゲ

ハの食草となる新たな植物群をつくり、幼虫たちが安心して成長できる環境づくりに努めたい

と思っています。


心を打つ詩を 読んで

2010-07-23 10:39:26 | インポート

新聞<7/23付朝日新聞>を読んでいて、目に留まった詩がありました。山形県の農民詩人:木村迪夫さんの祖母つゑさんが、ご詠歌の節回しで歌った言葉を木村さんが綴った詩です。

にほんのひのまる

なだてあがい <なぜ あかい>

かえらぬ

おらがむすこの ちであがい <ちであかい>

1946年5月末、中国戦線に出征していた長男が1カ月前に現地で病死していたことが分かり、三日三晩泣き明かした後につゑさんが即興的に歌い始めたのが、上記の詩です。

それ以前に、次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられ、その時には天皇陛下のために名誉の戦死をしたと赤飯を炊き、祝ったそうです。

二人目の息子の死で、母親としての我が子たちへの込み上げる思いが一気にあふれ出し、この歌()になったのではないかと思います。

    

ふたりのこどもをくににあげ

    のこりしかぞくはなきぐらし

    よそのわかしゅうみるにつけ 

    うづのわかしゅういまごろは <うづ:家のこと>

    さいのかわらでこいしつみ

この歌は、蚕の世話をしながら毎日つゑさんが歌っていた歌だそうです。歌声が通りにも聞こえ、近所の人は気味悪がって家を避けるようになったとのこと。それが、10年続いたそうです。

家の大黒柱を失い、寡婦となった木村さんの母:みねさんは、貧しい家を支えるために「畑バカ」と言われるほど、朝から晩まで黙々と働いたそうです。その母が、88歳で亡くなるまで、歌い続けた歌があるそうです。

    ああ あの顔で あの声で

    手柄頼むと 妻や子が

    ちぎれる程に 振った旗

    遠い波間に また浮かぶ  

※元になったのが、戦時中に流行した「暁に祈る」の歌詞。

 ただ、本当の歌詞は「遠い波間」ではなく「遠い雲間」となっている。

つゑさんの母親としての慟哭の思いが切々と心に響きます。

帰らぬ我が子をその手で抱きしめることも、そばで見送ることもできなかった無念さ。

みねさんには、最後の別れとなった時のこと(その時に交わした言葉やその時の顔や声が、その時のままの止まった状態で)が、心に刻まれていたのではないかと思います。

戦争によって失われた命とそのことを辛い思い出として背負い続けて生きる命。改めて命の尊さと人間として生きることの重さを強く感じました